日本における中華意識には根深いものがあるー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-17-52-4)
第4編 開国の初期
第17巻 米・ロの使節渡来
第52章 長崎にロシア艦隊渡来する(安政元年 1854年 41才)
日本における中華意識には根深いものがある
(久米は言う)日本では,古い時代から軍事と政事とは、分離されてきた。外夷に対しては、大将軍を命じて、その討伐に当たらしめた。征夷大将軍とは、これから始まっている。
日本の外交は、古くは支那とのみ交流していた。しかし、支那の外交は、外国の君主をして、必ず自らを臣と称させ、その上で、支那から外国の君主に国王の位を与えて接待する、という自尊自大を頑強に固執してきた。それで、我が国も、遣唐使が廃れた後は、体面を重んじて、これを見あわせてきた。そこで、国交は絶えるに至った。
然るに、わが国にあっても、天皇の尊厳を保とうと、自然と支那の風習を帯びきたり、外国の君主と対等の立場で交わるのを嫌い、外蕃の接待をしようとするに至った。遂には、鎌倉時代以降、朝廷は、自ら外交に当たるのを避けて、武士の将軍にこれを委ねるに至った。
それ故、足利氏が明から封爵(ほうしゃく:領土を与え爵位を授ける)を受けたのも、豊臣氏が明の封爵をしりぞけたのも、徳川氏が鎖国政策を定めたのも、すべて武家が行ったことで、朝廷は与(あずか)らなかった。ただ、「敵国降伏」の祈祷をつとめとして行った。・・・しかして、征夷でない国交の開始は、国是の変革で、朝廷においても、外国と対等の交渉をせざるを得なくなった。
アメリカとの交渉は、幕府においても解決に窮していた。朝廷においても、依然として、西洋各国を夷狄・禽獣視して嫌悪したので、アメリカの要求に対しては、攘夷を主張するのほかはなかった。
・・・結局は、国の権威をもって、平和にアメリカらと交わって、自主・独立の体面を立てるほかはなかった。
朝廷が社寺に祈祷を行わせた際に、孝明天皇が詠んだ歌
白波のたちさわくとも 何かせん わか葦原は 神風そ吹く
当時の日本人は、アメリカ人らを、紫髯(ひげ)・緑の眼の異人で、人道をもって交わるべきものにはあらず、しかもキリシタンの魔法を使って人を惑わせ、良美の国土を侵奪する外道である。貿易の勧誘も、その貪欲・あくなき求めを繰り出すための初めの手段であるとして、甚だしく嫌悪した。
(コメント:ブリタニカによれば、中華思想とは、中国が世界の文化、政治の中心であり、他に優越しているという意識・思想。異民族を夷狄、あるいは蕃夷と呼んでさげすんだ。
古くは、日本の倭の奴の国王が、後漢に朝貢して、金印を貰っています。そして、聖徳太子が、日本を「日出ずるところの天子」と中国とおなじ呼称を使うようになります。自らを「中華」とする意識を成長させるようになります。そして、蝦夷を「東夷」とよび、京都を「洛陽」と呼称して、中華意識を成長させます。(以上は、九州大学の川本芳昭教授の「漢唐における「新」中華意識の形成」、「倭国における対外交渉の変遷について」を参考にしてます。)
日本が、神州で、神風が吹くという意識・思想は、第二次世界大戦の時にも、ありました。こういう思想は、根深く残っています。
今も、一部の人が、冗談?で、西洋人・中国人のことを「毛唐」と言います。他方、逆に、コンプレックスからか、欧米のものを舶来品・ブランドものとして、買いたがります。 自分は強欲で品がないのに、ブランドものを身につけ、外車を所有して、品があり格上になったように見られたがります。
・結局、日本が、そして、みやこが中心という発想は、中国由来の「井の中の蛙」の発想で、海外の人や思想などを客観的に考察し、伝統に縛られずに未知の世界に挑戦していくという発想を欠如させてしまったように思えます。日本は、模倣・改良は得意だが、今までにない革新的な発明が少ないというのは、そのためでしょう。
・なお、中国人には、現在もこの中華思想が厳存しています。
例えば、中国の韓国に対する対応がそれです。
韓国・朴大統領は、2013年6月、内外の反対を押し切って、中国の抗日戦勝節記念式に出席しました。中国政府は、このような貢ぎ物を持ってきた韓国に対して大歓迎しました。 そして、両国間の政治と安保面での協力の幅を広げました。
ところが、2016年1月の北朝鮮による核実験やその後のミサイル発射等を巡り、中国は、韓国のホットラインでの協議を無視、ホットラインはまったく機能しませんでした。朴大統領は、中国・習主席に失望したと伝えられています。