日本赤十字社の創立者、佐野常民の若き日の不始末ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-17-50)
第4編 開国の初期
第17巻 米ロの使節渡来
第50章 長崎新砲台成る(嘉永6年 1853年 40才)
日本赤十字社の創立者、佐野常民の若き日の不始末
・直正公は、ここ10余年、西洋に蒸気船が発明され逆風を押し切って進行し、艦隊の通信もなすことができることをオランダ人から聞き、これで巨大な船を造ることができるならば、未来の海軍は必ず蒸気船になると考え、長崎の町年寄り高島に対して、オランダ商人のなかで蒸気船の雛形を持ってる者があれば買いたい、と申し含めていた。
さらに、蘭学によって物理、冶金などの科学的知識を得ようと、精錬方を設立した。そこで、江戸で開業するかたわら「象先堂」塾を開き、蘭学を教授していた伊東玄朴を利用しようと、佐野常民を伊東のもとに遊学させた。
佐野は、侍医の養子で、年齢は30代、すこぶる才気があり、すでに長崎で蘭学を修めていたため、伊東の下で塾長に挙げられた。直正公の種々の質問・研究を伊東に取り次ぎ、西洋の科学知識に関する新知識を報告していた。
この時、象先堂には、薩摩の寺島宗則、長州の大村益次郎等がいて生徒は非常に多かった。理想を定めればまい進する性格であった佐野は、交遊を好んだために学資に窮した。そのため、佐賀藩の年寄りを騙して工面していたが、その負債も次第に増大し、苦し紛れに象先堂で最も貴重な「ヅーフ」という日本オランダ対訳大辞書を30両の借金の抵当に入れてしまった。
「ヅーフ」とは、江戸文化時代のオランダ商船のキャプテンで、オランダ本国がナポレオンに占領され、オランダが植民していたジャワの方も、イギリスが支配して帰国することができなくなった。そのため、出島に駐留する18年間、通訳吉雄と一緒にこの大辞書21巻を完成させた。 これは写本にて伝えられたが、資力がなければ買うことができず、蘭学を学ぶためには必要欠くことができない貴重な本であった。当時の30両は、今の(大正時代)3・400円に相当し一書生が弁償することができる金額ではなかった。