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明治の長崎キリシタン(キリスト教徒)検挙ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-20-60-3)

明治の長崎キリシタン(キリスト教徒)検挙ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-20-60-3)

明治の長崎キリシタン(キリスト教徒)検挙ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-20-60-3)

第4編 開国の初期
第20巻 陸海軍とオランダ・アメリカとの条約改正
第60章 オランダ・アメリカ領事の貿易勧告(安政3年 1856年 43才)

明治の長崎キリシタン(キリスト教徒)検挙

長崎では、毎年の宗門改めに、キリスト教禁止のため、踏み絵を行っていた。
踏み絵とは、キリストの画像を足で済ませて、キリスト教徒かどうかを検査する方法である。キリスト教徒は、これをひどく怒っていたが、徳川時代の最も厳重な取り締まりであった。

しかし時代は変わり、幕府も下田と函館を開港したこともあって、阿部老中は、下田・函館の奉行に、踏み絵の検査を猶予させていた。
長崎でも、昨年来、オランダ人に自由に出島を行き来するのを許したこともあって、オランダ商館長からも踏み絵に対して苦情を申し立てていた。そのため、長崎奉行所においても、これを見合わせようとし、キリスト教の取り締まりはやや緩み加減となっていた。

ところが、ほどなく、長崎の浦上村に、キリスト教徒が多数存在することが発覚して、下田・函館のように取り締まりを緩めるわけにはいかないということになった。
長崎奉行所は、捜査を開始し、大村や佐賀にも捜査の手は及び、百姓の茂十、又一もキリスト教徒であることが発覚した。そこで、佐賀藩は、2人を拘留尋問して、供述の仕方を誘導し、キリスト教徒取り締まりのとがを免れさせようと説得した。ところが、キリスト教を深く進行している2人は、偽証するのを罪悪と考えて、ありのままに供述しようとしたので、事態はますます面倒となってきた。

 佐賀藩でも、その村のキリスト教徒の状態を捜査したが、外交問題となることを心配し、結局捜査を中止した。
その時の捜査によれば、その村はキリスト教徒が非常に多く、マリアがキリストを抱いている銅の彫刻を芋釜のなかに隠したり、子安観音と称して崇拝したりしていたということであった。ただ、彼らは平素の行いは極めて正直で朴訥だったので、もっぱら説得に努めたということであった。

その後、フランスのキリスト教会が、これらのキリスト教徒を招いて布教しようとしたので、井伊大老は、この2人を拘留したが、桜田門の変で遭難にあい、フランス公使やフランスの牧師の抗議もあって、その事は1時中止となった。しかし、明治の初めになって、再び長崎のキリスト教徒は逮捕されることになった。

・同じころ、薩摩の斉彬候は、いとこ篤子を13代将軍家定の正妻(御台所)として、大奥を動かそうと企て、最終的にその結婚を成立させるのに成功した。これを聞いた徳川御三家の水戸候は、「不可」として、「かっては徳川に敵対した外様大名の女に平身低頭するのは国家の大変なり」といって憤った。

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