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桜田門の変後、鍋島直正は後任を託されたのを断るー人生の分かれ目ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-22-67-2 )

桜田門の変後、鍋島直正は後任を託されたのを断るー人生の分かれ目ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-22-67-2 )

桜田門の変後、鍋島直正は消極的・保守的になって歴史の表舞台から消えるー人生の分かれ目ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-22-67-2 )

第4編 開国の初期
第22巻 条約頒布 公武合体の起こり
第67章 井伊大老遭難(蔓延元年 1860年 47才)

・桜田門の変後、鍋島直正は消極的・保守的になって歴史の表舞台から消えるー人生の分かれ目

・安政の大獄の後、不満をもつ水戸藩士と薩摩藩士が、雪空の3月1日、午前9時ころ、桜田門外にて、井伊直弼を斬殺した。2名はその後自殺、ほかの3人は自首した。
当時の閣老安藤らは、この事件で茫然として方向に迷い、直正公は、水戸、薩摩とともに、名望があったことから、将軍の大奥、近習らが、今後の処分を問い、政治を託すべく直正公の佐賀への帰国を引き留めた。
しかし、直正公は、病気と称し、長崎警護の重責があること、この事件は水戸と彦根の間に生じた不和であることから、外様が口を出すよりも、御三家、譜代大名の間で善処した方がよいとの考えで断った。

・結局、その後、外様から島津久光が起ち、長州が公武合体の周旋を始め、互いが政争を争った。
直正公の考えは、海外列強からインドや中国が侵略された例を肝に銘じ、内国一致して、自国日本の独立を全うすべく、防備を充実しもって外国の侵略を排斥すべし、との考えであった。ここで、公武合体の策をとることとなった。

(コメント:直正公は、どうして断ったのでしょうか。下痢・病気がちで健康に自信がなかったためか、政争に巻き込まれて井伊直弼のようになるのを心配したのか、九州の外様大名が権力の中枢についても中央の譜代大名を統治するのは難しいと考えたからか、??よくわかりません。

この後、時代は、ますます混乱の時期となりますが、直正公は、横浜港が開港して長崎の地位が相対的に低下しているのに、長崎警備を理由に責任ある権力の地位を引き受けるようなことはあまりなく、これまでと違っていつも消極的・受動的な態度をとり、歴史の表舞台に積極的にたつことはなくなります。江戸時代、47歳で老いを感じたのでしょうか。どうしてでしょうか??。)

(久米は言う)
・桜田門の変から明治維新になるまでの、薩長の離合、反復、曲折の波乱の7年間、活動すべく嘱望されながら、直正公は活動しなかった。考えられる理由

 (当時の朝廷の状況)朝廷の背後にある者の多くは、「志士」と称する浪人の輩で、世界の大勢を知らず、国内の各藩が一般政治を論ずるにしても、単純な思考で、あえて鎖国を主張し、単に精神・気力のみで、攘夷を遂げられると信じ、大砲・軍艦を知らず、国防の力が弱いのも知らず、頼みの武器は、弓・槍・鉄砲に止まり、外人は夷狄禽獣(いてききんじゅう)といえば、普通の人間と多少の相違があるだろうくらいの知識であった。

(幕府の状況)幼い家茂将軍のもとで、老中・若年寄といっても、譜代大名の弱小藩主で、自ら手腕があるわけでもなく、多くは家老によって左右され、その家老も部下の小役人に左右され、その小役人とて、どれも時代を理解しない迂遠の人間で、国家の大勢、京都の情勢はもちろん、世界の大勢を知ることはなかった。
当時の大名も、自分の藩を統治する力を有するのは少なく、従って、国家の大事を理解するどころではなかった。

かかる情勢で、井伊大老が斬殺され、直正公は大いに期待されたが、佐賀藩の後継者が幼く統治できるか不安で、自藩の佐賀藩を統治できなくて、国家の大事を担うことはできない、との考えで、やや保守的になられた。
(思うに)「天下の事は勢いをもって動く、勢い動いて人はこれに乗ずる。」
直正公は、その時期を待っていたが、不孝なことに病気の後、体力衰えて、こと志と違うこととなり、その結果、保守的になって、もっとも必要な時期を逃したために、ほとんど何もなすことはできなかった。

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