第6編 大政維新
第29巻 将軍政権返上
第85章 兵庫(神戸港)開港問題(慶応3年 1867年 54才)
(この年は、幕府が政権を返還し、天皇政権となった大変革の年であった。しかし、直正公と幕府・公卿らとの相談は、極秘の中において行われたため、(久米)は、知ることができないことが多く、久米が見聞した限りでの内容となる。)
1,慶応2年、1866年12月、孝明天皇が、36才で亡くなる。公表されたのは、年が明けた正月3日であった。9日には、明治天皇が16才で即位。関白二条公が摂政となる。
直正公は、病床で、新年を迎える。公武合体を進めてきた直正公は、天皇の崩御により、大いに気迫をそがれてしまう。
2,将軍慶喜が、若年寄永井を佐賀に派遣して、直正公の意見を聞く。要は、大藩佐賀藩を上京させ、その名望を借りて諸藩を納得させて、幕府の延命を図る計画であった。直正公は、幕府が長州征伐ができず、諸藩をして「朝廷の命令には服従するけれども、幕府の命令であれば抵抗する」という状況に至った現在、政権を返上するのが妥当であるとの意見であったろう。
ただ、佐賀藩の有志は、直正公が天下の名望を負いながら、ただ傍観して立たないのに焦りを感じ、「かくては、ついに、朝廷における発言権を失うべし」と憤慨する始末であった。
3, この年2月末、幕府の兵庫(神戸港)開港に関する諮問
直正公は、開港すべしとの意見。
(久米は言う)これまでの外交政策は、今日1つの城を割譲し、明日また一城を割譲する類で、ただ脅迫に耐えかねて自ら好まざることを敢えてし、さらに将来を見ることなく、いたずらにこれまでの慣習に沈溺したるものと言わざるを得ない。
4,将軍が政権を返上したのはどうしてか?
5月4日、京都で、越前松平春嶽、薩摩島津久光、土佐山内容堂、宇和島宗城の4候が、会合したが、合意にはいたらなかった。島津は、長州の罪を認めず、幕府が責任を取り、毛利親子の爵位を元に戻すべしといい、将軍はこれを不可として議論はまとまらなかった。ただ兵庫を開港することのみが決せられただけであった。ここに、幕府の権威は失墜してしまった。直正公も、ここに薩長同盟の形跡を知り、政局変化の機が熟したとして、将軍に「大政返上の決心を促すよう」家来に伝えた。
(コメント:時代の変革期というのは、これまでの権威・権力が失墜し、権威をもってその意見を通すことができなくなり、主要な幹部・権力者と協議するも、結局は話がまとまらなくなります。結局は外国の圧力に屈してしまうということになります。
今でも、日本の政策が外圧で決せられることがあります。昔のことではありません。
これは、弱体化した会社でも同じで、最後になって、法的整理にするか、あるいはM&Aに応じるかもなかなかまとまりません。時間だけが過ぎて、結局、債権者の意向に沿わざるを得なくなります。)
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