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江戸/幕末も結婚したい相手NO.1は医師であった。しかし、医師もそれほど楽ではなかったー鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(3-15-46-2)

江戸/幕末も結婚したい相手NO.1は医師であった。しかし、医師もそれほど楽ではなかったー鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(3-15-46-2)

江戸/幕末も結婚したい相手NO.1は医師であった。しかし、医師もそれほど楽ではなかったー鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(3-15-46-2)

第3編 直正公 政績発展
第4巻 砲台増築(嘉永3年=1850年~同4年=1851年)
第46 砲台増築

  ・ 江戸時代も結婚したい相手NO.1は医師であったが、医師もそれほど楽ではなかった

 世の父母は、「気楽の所に嫁ぐには、医師をえらべ。」 と言っていた。というのは、江戸末期、世の中は武士にも倹約令が厳しく強制されたが、医師の家族の節約ぶりは緩やかで、遊惰な生活を送れるとみられていたからであった。
しかし、そういう状況は続かなかった。直正公が、課業法(医師に関するものは医師取締法)の達しを出したからである。その結果、医師になり、生活を維持するのは、楽ではなくなった。

医師取締法の概略を紹介すれば、
「医師は、人命を預かる大切な職業故に、格別の良医ができるように取り払う必要がある。
医師の治療の善し悪しによって、家督相続の資格を吟味すべきである。
医師の家業としての治療が未熟の者は、番外として召し置き(生活保護程度の給付のみ)、次第に上達して組み付きにする。
若手の者は、奮発して治療に熟達し差し障りがないような良医になるよう申しつける。」
この趣旨は、良医の出現を促成し、無能の医師を排斥するにある。公は、その後、新規に医学校と蘭学校を新設した。

  佐賀藩の医師の総数は、5・60家に及んでいた。文武の業に励む義務はなかった。高級の医師には、300俵くらいの家禄を受ける家もあった。また、特殊の技術を有して、代々家業を継承して良医を出し続けた家もあった。しかし、世襲と言っても、ただ薬タンスや治療器等を所有するに留まって、患者が出入りするのを見ない家もあった。
世は倹約令で厳しくとも、例外として、医師は、家禄のうえに、治療の対価も得て、生活には余裕があり華奢の贅沢をしていた。そのため、結婚相手NO,1とされたのである。その後、上記医師取締法が発布された。

 また、幕末になると、西洋医学が出てきた。漢医、西洋医、その折衷派と競争するに至った。直正公は、新進西洋医の学生に対し、「西岡春益らの名漢方医は、人命を預かる以上、自己の経験・確信に基づき慎重の診断を下しているのである。他方、西洋医学の一端を表したに過ぎない粗略な翻訳書で人命を試験するのは、余が与するところではない。」といって、折衷の治療を受けていた。

 前記の通り、医師の治療が未熟であれば、医師として親の家督相続もできず、生活保護程度の生活となり、打撃を受けた家もわずかであったが出た。
また、医学校と蘭学校を新設の結果、名医であっても弟子が少なくなり、閉鎖のやむなきに至った者も多く出た。前記課業法の打撃を受けた者も出た。

 福地道琳は、解剖草本に通じ、漢方・蘭学折衷派であった。直正公の神経衰弱を治療して、名医と称せられたが、嘉永元年(1848)、直正公に随行しているとき、急病で亡くなった。その家は、蔵書、治療器具等を収めた書庫を備え、二女一男がいた。長女は小城の医師佐野文仲の妻となったが、患者は多くはなかった。長男は若く、遂に相続米渡り(生活保護程度の給付)となって、たちまち生活逼迫した。
加えて、西洋医学や蘭学医が出てきて次第に衰退し、居宅を他人に賃貸するに至り、福地の妻と一男一女は書庫に住んで、家賃を生活費の一部とした。
福地の庭には、本草学の研究に集めた珍しい樹木・草・花があったが、その育成に努めないため、繁茂に任せて、果ては盗まれるなどして次第になくなった。

(久米は言う)新旧学派が争う当時、このような話しは多くあった。しかし、福地のように、佐賀に西洋医学の新思想を導いた一代の偉人で、佐賀藩に多大の功績があった訳であるから、天命が至らなかったのを惜しまざるを得ない。せめては、珍しい庭でも永久に保存させたかった。

(コメント:昔も、今も、娘を持つ親の気持ちは変わりません。「裕福で楽なところが良い。」しかし、医師は、江戸時代も、それなりに大変でした。現代も、医学部へ入学しても、医師の国家試験に合格しないと、将来がありません。)

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