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江藤新平の登場(脱藩・永蟄居)ー明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-24-72 -1)

江藤新平の登場(脱藩・永蟄居)ー明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-24-72 -1)

江藤新平の登場(脱藩・永蟄居)ー明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-24-72 -1)

第5編  公の国事周旋
第24巻 国事周旋
第72章 国事周旋の内旨(文久2年 1862年 49才)

江藤新平の登場(脱藩・永蟄居)

・当時の状況(攘夷の背景)
物価の高騰。
これは、各藩が海外から兵器を求め、その代金に充てる物資を競って調達したからである。
もう一つの原因は、外国為替にある。円安となり、物価は高騰した。

 (久米は言う)輸入品が多くなり物価が高騰したというのは、大阪商人の言い分であるが、これは真実でない。というのは、輸入に見合う生糸、まゆ、紙、石炭、白蝋などが輸出されていたからである。

・幕府は、一橋慶喜を後見役に、越前の松平春獄を総裁に命じる。

・当時の外交交渉
(久米は言う)両候は、老中が自ら外国の使節に応接し、両候もまたそこに臨席する意気込みであった。しかし、トラブルが続出し、10分の1も実行できなかった。老中はもちろん、外国奉行や調訳などは、これまでの日本と外国との立案について、なにも知らなかった。つまり、通訳が外国人との間で申し合わせし、調訳らは、わかった程度で原稿を作成し、これを外国奉行に提出し、交渉の順序を教えて交渉させた。その後、形式的に老中が面会することとなっていた。このように形式的に事を運ぶに過ぎなかった。 結局、外国人が勝手にできるものであった。

今回、両候が、外交との交渉に臨んでも、なんら実効的な結果はないと言って、結局、行われなかった。
両候は、このように、すべての行政が形式にわたってその趣旨を忘れていることにあきれた、ということである。

 当時、列藩には、器量・学識の優れた賢人はいないわけではなかった。しかし、裕福な中で育ち、家来にかしずかれた殿様育ちで人情や世情にうとく、風俗を異にする外国に対し、貿易・条約の交渉をすることは、とうていできなかった。
ただ一人、直正公だけがそれをなしとげられる力量があった。といっても、奇策・妙薬があったわけではない。)

・「天誅を加える」といって、九条関白家に関係していた侍を斬殺する事件が起こる。
・薩長の不和が、激しさを増す。浪士らは、薩摩は幕府と天璋院(篤姫)の縁があるので幕府の味方であると見なしていた。
・幕府は、会津の松平容保を京都守護職に、越後長岡の忠恭を京都所司代に任じる。
・筑前の平野次郎(国臣)が、「国事周旋」の命令を得ようと運動する。
・7月25日、朝廷からの手紙を受け、直正公は、上洛を決定する。これを受けて、筑前、肥後に使者を派遣する。しかし、両藩とも朝廷の国事周旋に応ずべき準備はなく、直正公は「気がぬけ」る。
・ 8月23日、島津久光の行列を横切ろうとした英国人を斬り殺す「生麦事件」が起こる。

 ・ 幕府の大改革
・参勤交代制を改め、諸侯の家族の帰国を許可する。それは、無駄な出費の参勤交代を中止し、その金をもって外国に対する軍備を充実させるべし、ということにあった。これによって、政治都市であった江戸の繁栄は大打撃を受けた。その後過激グループが暴動を起こしたが、外国人は、この原因は失業した士民にあると言っていた。

江藤新平の登場
・平野国臣に出会った江藤新平は、佐賀藩が沈黙して静まりかえっているのに耐えきれず、佐賀藩に一通の手紙を出して、脱藩(脱走)する。6月27日のことであった。(続く)