治茂公の弘道館に臨んで教育を奨励すー当時の弘道館の衰退ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-2-5-2)
第1編 公の出生以前と幼時
第2巻 長崎防衛の変化
第5章 治茂(直正の父)公の入部
・治茂公の弘道館に臨んで教育を奨励すー当時の弘道館の衰退
当時、武士も次第に勘定者に堕落する変兆があり、学問を嫌う風潮が相変わらず改まらない状況にあった。
弘道館も、創立のはじめは、館内に入りきらないくらい出席が多かった。しかし、元来、退屈が生じやすいやすいもので、怠惰な泰平の世の中に流れ、「このように難しい事は嫌だ」ということで、数年の間に、出席者も前ほどなく、・・・日常必要となる知識についても、無学の者よりも知らないものが多く、・・・・「学校は、今日の実用には役立たぬもの」と心得え、ひたすら「どんなことをしても、役人になりたし」と思うだけである。弘道館の試験も手間ばかりかかって、格別、出世にはならず、との了見から、学問を止めて世の中の流れに身を投じるものも出てきた。最近は、弘道館も寺子屋同然になって、残念の至りである。
公務員になりたい念が深く、万事につけて役人になりたいと思うのは、給料で養われる武士の平時における習いであるが、二重鎖国の中にある佐賀の場合は一層他の藩よりも深いものがある。