第5編 公の国事周旋
第25巻 外国艦船の集合、攘夷の宣告・決行
第74/75章 京都・江戸間周旋(文久2年 1862年 49才)
混沌・殺伐とした幕末 保守思想の台頭
当時の直正公の主張
「今や、薩長は国事の周旋に藩屏としての責任を尽くし、・・尊皇は正論、公武合体も不動、攘夷は遅かれ早かれ実施せざるべからず」。(コメント:直正公は、どうもここら辺から、歴史の流れに沿わなくなってきています。
もっとも、当時は、長州と薩摩とも、尊皇攘夷を強く主張して朝廷を自らの影響で動かそうと競い合っていたのです。)
・そこで、直正公は、近衛関白との話の中で、「もし、薩長土三藩と勝負すべく仰せつけられるならば、足軽の銃隊40人にて、これらをうち伏せてご覧に入れましょう。」と豪語したが、佐賀藩は長崎警備の任務もあったので、京都警備は保留となった。なお、後日、佐賀藩のアームストロング砲が、彰義隊を蹴らします。これで、官軍の勝利を導きます。
・佐賀藩で、日本で初めて蒸気汽船を製造する。
・10月、朝廷は、条約拒絶、攘夷断行に決したり。
(久米は言う)これは、京都に集まった志士の輩の意向に過ぎず、言語道断である。しかも、これは、前の勅令を無効にするものと言わざるを得ない。