第6編 大政維新 第32巻 版籍奉還 第94章 藩制改革、版籍奉還(明治2年ー1869年 56才) これまで、大名の領地は、古来からの開墾で所有したり、荘園の免許に基づき世襲してきたが、徳川将軍の「判物」(=認可)は、一代限りで、将軍の宣下があれば、これを取り上げたり、他の者に新たに領地を与えることもできた。
明治政府としては、この制度を維持すべきかどうか、頭を悩ませた。同時に財政収入の乏しさに悩んでいた。 ここで、藩の領地を朝廷に返納して国家を統一すべし、との意見が出て、直正公も賛成し、1月23日、薩長土肥の版籍奉還となった。これを聞いた他藩も、続々と版籍奉還を願い出た。ただし、直ちに領地を収容されることはなかろうと思っており、なお藩制度は永続するものと信じていた。そのため、思いの外に平穏であった。
ただ当時、不穏は至る処にあった。長州の伊藤博文は、廃藩の主張を不忠であるとし、薩摩の島津久光は封建を郡県に変えるのを天下を乱す道と憤り、長州の大楽や久留米の小河、熊本の川上らは、朝廷を破壊して局面を一変しようと企て始めた。この流れが、その後の征韓論となった。
直正公は、藩政改革をなすべく、副島次郎、江藤新平を従えて帰国する。 ここに、戸籍法は改められ、旅行、婚姻、居住、土地売買は自由となった。藩内の通行も自由となり、佐賀の藩内鎖国もなくなった。
直正公は、このころ、あまり政治には気乗りがせぬように見え、やや厭世の感があるようになった。また病によって藩政には欠席が多く、いたくその気力は衰えた。その病の原因は胃腸病であった。 しかし、副島が、版籍奉還の話をすると、「なに、長州が領地献納に決心したか、これで皇政復古はできたるぞ。山内容堂には異議はあるまいが、薩摩はどうか。」と問われた。 大隈重信は、「西郷は島津久光に快からぬ事情がありますが、大久保が熱心にまとめんと苦心しているので、必ずやまとまりましょう。」と返事した。 直正公は、「長土肥が決心を固めた上は、島津久光ひとり反対はできなかろう。速やかに事を運ぶようにせよ。遅れれば面倒起こるべし。これにて、王政一新は成りたり。・・・」といわれた。
(コメント:やはり、老いて病気になると気力が衰えます。)
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