第6編 大政維新
第32巻 版籍奉還
第95章 東京行幸、朝政改正(明治2年ー1869年 56才)
・直正公の性格
公は、主義の人であった。将来に可能性を見つけると、その方向に向かって進まれた。しかも、途中で、蠅が触れ、蛾が打つような面倒なことはありがちのこととし、紆余(うよ)の曲折をたどることをいとわない、という度量の大きさがあった。そのため、その柔軟さは、他から見ると、熱意に乏しいとの非難を受けることがあった。しかし、その聡明さは確信を持ち、忍耐力は強かった。
・北方領土
当時、日本とロシアとは境界問題が解決していなかった。日本は、樺太の北緯50度線を国境とすべしと主張し、ロシアは、北緯47度線を主張した。 その後、ロシアは、樺太の南端に居住していたアイヌを圧迫して退去せしめ、代わりにロシア人を居住させるようにした。そのため、漁業資源の争いが絶えなかった。そこで、直正公は蝦夷開拓論を提出し、蝦夷開拓督務に命ぜられた。 ・当時の蝦夷の人口は、わずかに5万人余り。住民の多くは海岸に集落をなし、内地の森林にアイヌ人とヒグマが住んでいる有様であった。 そこで、まず地名を北海道と改め、石狩、日高、十勝、釧路、根室、千島、樺太など12国に分けて、郡とした。
・この年の出来事
・榎本は五稜郭にこもったが、官軍に敗れた。 直正公は、日本は海中に孤立する国であるとして、海軍の創設を建白した。
・皇成復古
5月、侯伯会議が開催される。議題は、祭政一致、皇道復興であった。これより、神葬祭が始まった。これらの議題はほぼ決まっていて、「異議があれば、忌憚なく申し出でよ。」ということであったが、反発し得たかどうかは覚束ない。 ・維新の戦功功賞は、
薩摩・長州に12万石、
土佐に4万石
肥前に2万石 であった。
・天皇は、紫宸殿で祭らせられ、各藩主を各県知事に任命された。
・新政府の組織は、皇政復古の組織に、外国の異様な「参与・・・」とか付加したもので、不満も多く、復古と維新との2派に分かれた。 7月、再度、管制改革があった。太政官の上に、「神祇官(じんぎかん)」をおくというものであった。これで、外国の宗教を排斥するということであった。これまでの「会議公論で決すべし」は、自然と衰退した。
・8月16日、直正公は、岩倉具視と共に大納言に命ぜられたが、病気で歩行も困難となっていたので、免官を願い出た。
・当時の歳入は200万石なのに対して、歳出は320万石を超えた。加えて、この年は凶作であった。当時の会計官の満岡は不換紙幣(太政官札)を発行し、紙幣の信用は低下し、物価は高騰した。そこで、新貨幣を鋳造することとなり、大阪に造幣寮を設置した。 (コメント:いったん決めた方針を忍耐強くやり抜くことが大事なのが分かりました。
現代も、歳出が歳入を上回っていますが、太平洋戦争後の財産税のようなめちゃくちゃなやり方で解決せざるを得ないのでしょうか。
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