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直正公が算盤大名と言われた理由は、藩札の信用を利用した冨の創造にあったー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-20-59-2)

直正公が算盤大名と言われた理由は、藩札の信用を利用した冨の創造にあったー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-20-59-2)

直正公が算盤大名と言われた理由は、藩札の信用を利用した冨の創造にあったー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-20-59-2)

第4編 開国の初期
第20巻 陸海軍とオランダ・アメリカとの条約改正
第59章 陸海軍改革のおこり(安政3年 1856年 43才)

6月10日、佐賀藩は、月限(つきげん)なしの銀札(藩札)を発行する

・佐賀藩では、従来、米1升に対して40文に値する「米筈」(米を信用の担保にした証券)を発行していた。しかし、インフレで、米の価格は3倍にまで騰貴し、米の現物でなければ受け取らないという者まで出てきて、米筈の信用は暴落していた。

そもそも、幕府は、諸藩に紙幣発行の権限を与えていなかった。しかし、それぞれ領内の財政が逼迫し、領内限りの銀券(藩札)を発行し、紙幣のように通用させた。佐賀藩の周辺藩、つまり筑前、久留米、柳川、三池、熊本、人吉の各藩は銀券を発行していた。しかし、領外に出ると通用せず、大きく割り引かなければならなかった。佐賀藩の物品を領外で販売し、代金として領外の藩札を受け取って、佐賀藩の領内で使うとなると、割引・減額しなければ通用せず、損をすることになった。そこで、佐賀藩も銀札を発行した。

佐賀藩は、当時、長期にわたる直正公の財政健全化策で、財政は安定していたので、他藩の藩札に比べて、信用が絶大で、領外でも、割引することなく通用した。
その結果、この藩札を資本に、長崎で外国貿易の仲介をしたり、播磨や摂州の米相場の資金として利用し、利益を蓄えた。このため、直正公は、「算盤大名」と言われるようになった。

(コメント:佐賀藩は、今のアメリカみたいに、藩外でも通用する基軸通貨を発行していたのです。藩札を印刷するだけで金を作れることになるのですから、その経済的地位は、遙かに有利です。さらに、それを資金に米相場で儲けていたのです。若い頃の借金取りに追われた体験が、理財の才能をはぐくんだのでしょうか。納得!)

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