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直正公の姿勢は、藩士民に親しいものであったー鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(2-6-16-2)

直正公の姿勢は、藩士民に親しいものであったー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(2-6-16-2)

第2編 公の初政治

第6巻 公入部(家督相続)の新政治

第17章 藩政拡張の初歩

・直正公の姿勢は、藩士民に親しいものであった

・直正公の姿勢は、「国家を守護する甲斐がなくては、ご先祖様方に恐怖至極である」
これについて、(久米は言う)、「佐賀藩の領地は、鎌倉時代、小弐武藤家に守護職を与え、同家はこれを世襲し、龍造寺家に移り、足利将軍、豊臣関白、徳川氏によって承認されたもので、いやしくも、その職の責任に堪えざることあれば、改易(領地没収・罷免)されることは、その例は少なくない。そういうことになれば、先祖に対して申し訳ない」との決意である。

・下情を知る

・将軍が、江戸から諸方へお成り(外出)するときは、「火止め」といって、当日は沿道の人家に火をたくのを禁じ、もし煙が出ることがあれば、家主は厳罰に処せられた。上野広小路もいつもは露天がひしめき合い、歩くに肩をぶつけるほどであったが、将軍お成りの当日には、露天はことごとく取り払われ、人影なく、左右商店の声なき所を将軍の行列は静かに通行した。されば、家斎将軍は、「我は、お成りでないときの江戸の市街を通行してみたい」と言われた。

 佐賀藩の場合は、このように甚だしいものではなかったが、これを模倣して、殿様通行の折には、目付を道路に派遣し、見通しの道筋で、家に「入れ、入れ」と呼んで、ことごとく通行を禁じ、ただ門戸の前にひざまずき、頭を伸ばして,遙かに行列を望み、家の前を通行する際、わずかに駕籠を拝するのを許すのが常であった。故に、藩主となれば、「殿様のご通行」にあらざる時の佐賀市は見ることができなかった。
他方、直正公は、騎馬で乗り回るので、家来が徒歩で人払いをすることはできず、「入れ、入れ」の声も間に合わず、この方法で佐賀士民に接近された。俗吏は、これを見て、かえって軽々しい挙動で、藩主の威厳を毀損すること少なからずと陰口をたたいた。

・死刑執行の日には、精進料理

佐賀には、惰民は多けれど、盗賊殺人は至って少なく、故に刑罰もはなはだ軽く、徒(ず)罪(懲役刑)は、3年を上限とし、死刑を執行することは数年に1度あるに過ぎなかった。

・神社参拝・寺社詣でには、前日より、肉食を控え、体を洗い清めて、衣服を改めて、座を正しくされた。

・干ばつの際は、扶助を給付された。その数に見落としがあった代官はきつく譴責された。

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