福岡での法律相談 山田法律事務所    

直正公は、蘭学・西洋学を奨励したが、思うようには進まなかったー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-19-57-1)

直正公は、蘭学・西洋学を奨励したが、思うようには進まなかったー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-19-57-1)

直正公は、蘭学・西洋学を奨励したが、思うようには進まなかったー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-19-57-1)

第4編 開国の初期
第19巻 長崎陸海軍伝習
第57章 長崎におけるオランダ人講習(伝習)の開始(安政2年 1855年 42才)

・江戸での大船製造
幕府は、アメリカと和親条約を結んだが、依然として、鎖国政策を撤廃しなかった。そして、軍備を拡張すべく、大船製造の禁止を解除して、軍艦製造をはかった。
浦賀港で、日本最初の西洋式造船がなされた。鳳凰丸と名付けた。幅5間、長さ25間。薩摩藩も日本・西洋折衷の船を製造し、昇平丸と名付けて、幕府に献上した。このように大船建造が競争となった。

 もっとも、人物の養成は難しいもので、「盗人を捕らえて、縄をなう」の状態であった。公は、幕府に頼んで、オランダ軍人から最新式の陸海軍の技術を講習すると同時に、鉄砲鋳造、蒸気船製造等の知識を得ようとした。

 しかし、当時の武士は、西洋学を卑しむ気風であった。学問の目的は、精神修養、徳義を成就することにある以上、下劣なキリシタンの気風は教化に値しない。
西洋学の長所は、火術・操船の技術にあるが、結局は技術であって、将来は「銃隊長、船頭」とまりで、「大臣・大将」になるわけではない。 理化学も、薬剤を製造するものの、外はビードロを吹き出す職工になるだけだ、との偏狭な考えであった。

そういう中で、直正公は、西洋の火術を奨励し、銃陣・砲術を奨めた。蘭学を火術方に付属させ、鉄砲の秘術研究所として、佐賀藩の子弟に新しき武術を奨励した。
そうはいっても、一般の考えは、戦争の勝敗は白兵戦にあり、公の思し召しと言って、火術を修めるのは、権力にへつらって栄誉を求めるものだ、と甚だしく批判するものもいて、ともかくこれを嫌った。才能ある青年たちは、我が進む道はここに有りとして、これに従ったが、一般の生徒はあまり重きを置かなかった。

(コメント:新しい技術革新があっても、従来の価値観が頭にこびりついている人々がそれを受け入れるには時間がかかります。これは現在の論評かと思ってしまいました。)

記事の目次は、本ホームページの上の方の「鍋島直正公伝を読む」ボタンをクリック。