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不祥事の悪しき対応例: フェートン号事件事件の場合-1ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-2-6-1)

不祥事の悪しき対応例: フェートン号事件事件の場合-1ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-2-6-1)

不祥事の悪しき対応例: フェートン号事件事件の場合-1 再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-2-6-1)

第1編 公の出生以前と幼時

第2巻 長崎防衛の変化

第6章 英艦長崎突入(フェートン号事件-1)ー不祥事の対応

・アメリカ船が長崎に渡来し、ロシア船がエトロフ島を騒がす
ロシア船がエトロフ島に上陸し、番所の番人を捕らえ倉庫を焼いたが、南部藩の藩兵が大砲を持ち掛けたら、驚愕狼狽して逃げかえる事件があった。
ただ、蝦夷は辺境の地にあるので、江戸に伝わる間に、情報が針小棒大となり、「松前奉行は恐怖のあまり発病した」との流言が広まった。

・この騒動で、長崎の警備も大砲を増やしたりして厳重となった。江戸では、甲冑・陣羽織を売り出し、人心は恐々として、武器類の売買は盛んとなり、在庫はなくなった。佐賀藩でも甲冑製造を始め、甲冑を持たない者には、年賦払いで買えるように便宜を図った。

 日本人は、ここで初めて、ロシアの東の国境は、我が蝦夷・樺太と接するのを知り、国民は、容易ならぬ敵国であるとの認識を有するに至った。幕府は、諸藩に対し、ロシア船が渡来することがあれば、速やかに打ち払うべしとの通達を出した。

 ある識者は、「ロシアは北の国境より次第に領域を広げて日本に迫りくる国である。昔、蒙古襲来のときには神風によってこれを撃退することができだが、今の世では、神風は頼みがたし。ロシアでは、船を「海城」と名付けているが、それは堅固で、操縦の術は、諸国に超越する。この江戸湾の潮が直ちに世界に通じることを思えば、決して油断はならざるなり。」と言ったので、民心の動揺はますますは激しくなった。町奉行は、一切かかる風説を流すを禁じた。一方、砲術家井上に下田、浦賀、上総の海岸を視察させ、大砲を築く手配をさせた。

・フランスナポレオン大帝の波動
フランス革命後、ナポレオン大帝がヨーロッパを席巻し、オランダ、スペイン、イタリーは滅亡した。東洋に勢力を伸ばしたオランダの植民地もフランス領に帰属し、オランダの国旗は、フランスの国旗に変わった。
その間、 1人屈せず有利な態度を示したのは英国である。イギリスは、次第にフランス領を侵食し、喜望峰、ジャワを手に入れ、フランス領インドシナまで把握するに至った。フランスも、海上権ではイギリスに対抗できなかった。 1808年(文化5年) 、フェートン号事件は、日本国民の記憶すべきところで、特に佐賀藩においては、長く忘れることができない痛恨事である。

この年は、オランダ商船は長崎に入港しなかった。長崎出島のオランダ商館は、わが国がヨーロッパ形勢の推移に暗いことを幸いとし、本国の政変があったにもかかわらず、なお独立国の体裁を装ってオランダの国旗を掲げていた。当時、オランダ国旗が翻るところは、全世界中、ただ長崎出島の小天地のみという奇観を呈した。しかし、海外事情にほとんど盲目であった日本人には、オランダ船が渡来しないのをおかしいと思うほどの知識もなかった。

・ 長崎でも、大砲用の火薬や、足軽用の具足などを準備した。
長崎奉行松平図書頭も、急報する際の手はずを命じた。長崎の野母崎からのろしをあげ、これを諫早の多良崎で受けて佐賀藩に急報し、さらにこれを朝日山(新鳥栖駅の南)で受けて、筑前・筑後に知らせる準備をさせた。

・イギリス軍艦の長崎突入
8月15日の明け方、「白帆船見ゆ」との連絡があった。その軍艦はオランダの旗を翻して、日本の役人検使が声をかけると、オランダ語で答え、ジャガタラより来航したと伝えて、検使と一緒にいたオランダ人を本船に拉致しようとした。これに応じないとみるや、合図とともにイギリス兵は剣を抜いてオランダ人を本船に連れて行った。検使は、形勢が不穏なため、本船に乗り移ろうとしたところ、検使の槍を奪い取り、鉄砲を構えてうとうとした。とっさのことで、検使も術の施すべきなく、 手を束ねて、なすに任せて空しく帰ってきた。

長崎奉行松平は、「何故に、異船がオランダ人をとらえたのか、どこの国の船か、何の目的を持って来航したのか」調査するため、オランダ商館長に使者を送った。
一方、異船は、オランダ人の胸に鉄砲を構え、オランダ船2艘が停泊しているはずだから、その場所を明らかにせよ、隠せば射殺すると脅迫した。

 この船は、フェートン号といい、大砲48門を2段備え、乗組員およそ350人、館長をペュリードといい、オランダ船を捕獲するため、インドのベンガルから49日の長い航海をへて、日本に到着したものであった。されば、場合によれば開戦もやむなしとの決意で、初めから傲慢不遜の強圧手段であった。

・この日は、まさに中秋にあたり、暑さはまだ残っていたが、秋気は清く、天には雲もなく晴れて、風はなぎわたり、松浦5島の島々もはるかに澄みて、長崎港内には、日が沈むのを待たずして、煌々たる明月が輝き渡った。イギリスは、 3艘のボートに30名ほどの兵隊を分乗せしめ、 戸町、西泊2つの番所の前を通過したが、番兵はなすところを知らなかった。三艘のボートは、遠慮なく長崎港内を乗り回り、出島で捜索したが、オランダ船を見つけることができず、帰った。

 長崎両番所が、異国のボートに対して鉄砲1発、大砲1発をも報いず、これを捕獲しようとする者もなく、手をこまねいて座視して空しくこれを逸したのは、いかに見ても「間抜け」というほかはない。長崎奉行は、オランダ船が来航せず兵隊の人数も少なかったので、こういう不祥事が起きたと弁解する。しかしながら、三艘のボートを拒むのに多数の兵を必要とするのか。また、その夜は番頭を始めとして明月を観賞しようと、夕方から茂木に赴いて兵舎にいなかったためであるというが、当日は、明け方より「白帆」の急報があった以上、兵舎を空けて観月に赴くのはあまりにも油断である。

 長崎市内では、イギリスのボートが来たのはオランダ商人を捕まえるためである、との噂が起こり、出島館長ヅーフは奉行所に避難し、市民の間にも、今にも戦争が始まると狼狽し、その混乱は筆舌の及ぶところではない。

 長崎奉行は、直ちに佐賀、福岡、大村、平戸などの諸藩に出兵を命じ、イギリス船を打とうとしたが、諸藩の兵は、急に集まるはずもなく、 15日の夜はいたずらに会議を重ね、明け方となった。
イギリス艦長は、夕方までに食料と水を持ってこなければ、長崎港内にある日本と中国の船を焼き尽くすと伝えた。長崎奉行は、その傲慢不遜を怒り、使者のオランダ人を返さないと一旦決めたが、オランダ人はイギリス軍艦を恐怖することはなはだしく、要求に応じるように嘆願書を出し、その後難は計り知れないものがある、と暗に脅した。

長崎奉行はこれを打ち払うには兵力も足らず、勝算の見込みもなく、ついにいかんともするあたわず、野菜・薪水を送った。その際も、イギリス兵は日本の検使の船を取り囲み、本船に乗船させず、傲慢不遜の挙動が多かったが、なすがままに任せて制することが出来なかった。

 長崎奉行の苦心には同情すべきものがある。長崎防衛の大砲は不完全で、鉄砲すらよそから運んでくるほどで、到底間に合わなかった。警備の者も死を冒して一撃を加える勇気のある者もなく、イギリス軍艦の乱暴を目の前に見ながら手を束ねて、なすがままに任せた。他方オランダ商館長もイギリス軍艦を恐怖し、通訳においても、ことさら婉曲に威嚇の意味を伝えて、奉行を説得しようとした。

・奉行所の意見も何度も変遷した。   15日の夜には追い打ちの命を伝え、   間もなくこれを改めて検使船の護衛を命じ、
再びこれを改めて焼き討ちの計画を定めた、    はたまた張切船を命じた。
夜半から4度命令を変えて、また焼き討ちの計画を立てた。
やがてオランダ人の説得を聞いて無事にイギリス船を返すことを許した。
が間もなく、大砲その他の手当を命じた。

このように長崎奉行松平が、いかに苦心し狼狽したかを見ることができる。なお、焼き討ちというのは、船に茅を満載して敵の船近くに寄せ、火を放って風上から流しかけるのを言う。

(コメント:ロシアの北方領土支配は、江戸時代からの狙いであったのです。
事件があるときに限って、レクレーションだったりすることは、今もよくあることです。)