薩長土肥だけが、幕末から明治に活躍できた理由?(薩摩藩)-起業のヒントを探る:九州・山口の海外進出(交流) (2)
鹿児島・薩摩藩の場合
財政担当の調所(ずしょ)広郷が行った財政改革の方法は、次のようなものでした。
・新田・シラス台地の開発を行い、農産物の拡大に努めました。また、砂糖を農民から強制的に買い上げ、これを大阪で売りさばいて利益を上げました。馬や鰹節の名産地であったことから、これを売り出して、利潤を得ました。
2,軍の近代化の背景
1862年 生麦事件起こる。薩摩藩の武士が大名行列を妨害したイギリス商人を殺傷する。
・この背景は、薩摩藩が、郷中教育をしていたからでしょう。郷中教育とは、武芸に励み、急な坂にも耐えられる達者な体格を持ち、忠孝の道に背かない武士の心得を説く教育です。郷中とは、武士の居住地域を区画し、その区画ごとに郷中をおきます。郷中の子供たちは、 6歳から24・5歳までの18年間、 6歳から10歳まで(小稚児)、 11歳から15歳まで(長稚児) 、 16歳から24歳まで(二才)に分け、 二才が長稚児を、長稚児が小稚児を指導する仕組みでした。そこで書を読んだり、武芸にはげんだり、詮議(今で言うディベート・討論・ソクラテスメソッドみたいなものか)をしたとのことです。
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