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薩長土肥だけが、幕末から明治に活躍できた理由?(薩摩藩)-起業のヒントを探る:九州・山口の海外進出(交流) (2)

薩長土肥だけが、幕末から明治に活躍できた理由?(薩摩藩)-起業のヒントを探る:九州・山口の海外進出(交流) (2)

薩長土肥だけが、どうして、幕末から明治にかけて活躍できたのでしょうか?(薩摩藩) 起業のヒントを探る-九州・山口の海外進出(交流) (2)

高校時代に習ったはずですが、他の藩ではなくこの4藩が、どうして活躍できたのか、分かっていなかったので調べてみました。

鹿児島・薩摩藩の場合
1、財政改革
薩摩藩は、近世初期から、豊臣秀吉との戦いで負け、二度の朝鮮出兵、徳川家康との関ヶ原の戦いで負け、領地は減らされたうえ、相当の出費がかさみ、出入り商人に融資を断られるほど財政は悪化していました。

財政担当の調所(ずしょ)広郷が行った財政改革の方法は、次のようなものでした。
・島津藩は、 1606年に琉球に侵攻し、琉球を支配していました。そこで、琉球を仲介として、中国との貿易を行うべく、形式的に琉球王国を存続させ、実質的に中国との貿易に努めました。馬、硫黄、銅、錫などを中国に進貢し、中国から生糸、反物、薬種を輸入し、利益を上げました。特に生糸で利益を上げました。(コメント:なお、支配された沖縄県民は、この歴史を忘れることはないでしょう。唐いもを「さつま」いもと呼称しますが、ある沖縄の知人は、名前さえも薩摩藩からとられたと怒っていました。)

・新田・シラス台地の開発を行い、農産物の拡大に努めました。また、砂糖を農民から強制的に買い上げ、これを大阪で売りさばいて利益を上げました。馬や鰹節の名産地であったことから、これを売り出して、利潤を得ました。
・藩内の楠を利用して樟脳(しょうのう)を製造し、長崎を通じてオランダへ輸出し、利益を上げました。

・調所の政策は、武士や庶民に過酷なもので、調所が自殺した後、大変な悪評が出て、その子供は免職、屋敷は取り上げられたとのことです。

2,軍の近代化の背景
・島津藩では、海岸が多いことから、中国通事(通訳)、西洋通事を置いて、海外情報の収集をしていました。また、琉球を通して、海外情報を取得していました。そういうこともあって、佐賀藩と共に、パリ万博博覧会に参加したのです。徳川幕府はもちろん、他の藩は参加していません。また、島津斉彬は、洋癖の人で、造船、鉄砲製作にエネルギーを注ぎました。

1862年 生麦事件起こる。薩摩藩の武士が大名行列を妨害したイギリス商人を殺傷する。
1863年イギリス艦隊は、薩摩藩の砲台を破壊。それ以後、薩摩藩は、イギリスとの力の差を痛感して、イギリスの機械を導入し、軍隊をイギリス式に改めました。
・以後、海軍や海軍の重要性を認識して、洋式帆船(いろは丸)を建造、さらに軍艦を建造。反射炉・蒸気機関を建設しました。

・アーネスト・サトウ(イギリスの外交官)は、1863年の薩英戦争の後で、「私たちには、薩摩の人々が文明の技術に長足の進歩を遂げつつあるように見受けられた。そして、非常に勇気があり、性格が率直であると言う印象を受けた。私は、薩摩人は、やがては日本中ではるかに他をしのぐであろうと思ったのである」と記しています。 「一外交官の見た明治維新」

・この背景は、薩摩藩が、郷中教育をしていたからでしょう。郷中教育とは、武芸に励み、急な坂にも耐えられる達者な体格を持ち、忠孝の道に背かない武士の心得を説く教育です。郷中とは、武士の居住地域を区画し、その区画ごとに郷中をおきます。郷中の子供たちは、 6歳から24・5歳までの18年間、 6歳から10歳まで(小稚児)、 11歳から15歳まで(長稚児) 、 16歳から24歳まで(二才)に分け、 二才が長稚児を、長稚児が小稚児を指導する仕組みでした。そこで書を読んだり、武芸にはげんだり、詮議(今で言うディベート・討論・ソクラテスメソッドみたいなものか)をしたとのことです。
(コメント:現在もこのような教育が必要な気がします。現在は、教育レベルを上げることが主たる目的で、ほかの生徒のことなどかまっていられないという風潮です。厳しい競争社会を勝ち抜くためには、助け合うことも必要です。一人で,
すべてをできるわけではありませんから)。

・また、薩摩藩では、武士組織を温存するために、鄕士(半士半農)制度を取っていました。それで、幕末には、兵力を動員できたのです(コメント:現在みたいに、リストラばかりしていては、愛社精神を持った社員は育たないでしょう。)

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肥前(佐賀)藩についての詳しい記述は、「鍋島直正公伝を読む」をクリック
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