藩主にも、結婚の自由はなかったー鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(3-13-42-1)
第3編 政績発展
第14巻 長崎砲台増築否決
第42章 幕府へ長崎砲台増築を建議す(1847年 弘化4年、直正公34歳)
・正妻盛姫が逝去する。37歳。佐賀で儒式葬祭をおこなう。 但し、仏教のほかに、神道に葬祭式はなく、儒学の葬祭式を適宜脚色して行うことにした。
・孝明天皇即位する。今回の参府は1年間に及ぶ。その間、藩主留守の注意書きは以下の通り。
1,農商引き分け(分離):農民が商売することを禁ずる。また、浪人が農村に行き、文学や無用の遊芸を教えるため、彼らを立ち退かせる。
2,戸籍調べ:キリシタン禁制の法律により、毎年宗門改めを厳重に行っていたが、お寺の証明によっていたため、毎年一回「面引合」(つらひきあい)を実施し、顔と帳面を検査した。そのため、奉公で佐賀城内に出てきていたものには帰村させた。
3,面従腹背をいさめる:これに対して折檻を加えた。
4,目付をいさめる:目付には、郡目詰め、下目付あり、因習にとらわれ、権威を笠に着る者があり、これをいさめた。
5,冠婚の礼を重んじさせた。
・筑前候が、長崎を検分して、長崎外港の伊王島に砲台を築造するのを同意する。
しかしながら、伊王島は、佐賀藩の領地で、福岡から遠く、船で往復するなど不便なので、内心嫌々ながら同意したことが分かっていたので、直正公は、結局、独力で築造することを内心、決心した。
続く、幕府との協議は遅延した。
・この年、嫌々ながら、田安家(徳川氏の支族である田安・一橋・清水の一つ)の筆姫18歳と結婚することとなった。
当時、大奥は、政治上もその勢力は甚だ強かった。徳川家では、旧来、公家の女を上ろう(貴婦人)として、源氏名を、姉小路、万里小路、飛鳥井などと称していた。このころの大奥の姉小路は、橋本大納言の妹で、家慶将軍の上ろうであり、すこぶる容色がよく、将軍から寵愛され、内外に権威があった。その意に逆らった老中水野は、排撃され、これに結託した阿部は老中に任用された。
将軍の娘であった盛姫が亡くなり、将軍は婿を失ったことになったので、大奥から直正公の縁談話が始まった。大奥から直正公に、伏見宮の女王を客分にて引き受けられたしとの斡旋は何とか断ったが、家慶将軍から、田安家の筆姫と結婚すべく仰せられ、実は好みではなかったが、やむなく承諾した。