西洋式を日本風に工夫・採用・普及させた江川英龍の功績は甚大ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-18-55-3)
第4編 開国の初期
第18巻 開国の初歩
第55章 オランダ人伝習の起こり(安政元年 1854年 41才)
西洋式を日本風に工夫・採用・普及させた江川英龍の功績は甚大
(久米は言う)江川英龍は、伊豆韮山の代官の出で、資格は150俵の下級役人であったが、儒学者鳥居燿蔵と一緒に房総半島の砲台設置場所を調査したとき、極めて的確な調査をして、鳥居から嫉妬され排斥させられた。
しかし、その精密・賢さは、ますます天下の声望を集め、ついに西洋火術の第一人者と評価された。
直正公も、江川を深く信用された。佐久間象山も江川と親しかったが、公は佐久間を江川ほどには評価しなかった。
公は家来の岡、田口を江川の元にやって、砲術、銃陣等を学ばせた。
・佐賀における銃陣の指揮は、初めオランダ語であった。
しかし、夷狄の言葉で日本の兵士を指揮するとは不当だという非難が起こった。
西洋火術に通じていた江川英龍は、いろいろ、工夫した。それを「韮山式」という。といっても、日本語には代わるべき名詞が乏しく、声の響きも悪く、多人数に響き渡らず、なかなか苦心した。
例えば、オランダ語の「ゲール」は音声よく響くが「鉄砲」「銃」ではよく響かず、旧式の火縄銃と混乱する嫌いもあった。そこで、「担え銃」「下げ銃」「著け銃」としたが、響きが悪かった。さらに工夫し、「筒取り上げ」「筒下ろし」「剣著け」としたが、多人数の際は場内に響きが悪く、再びオランダ語で命令しようとしたこともあった。
兵士の服も、洋服を不可とし、たちつけ袴、半纏、股引と決めた。ハマグリ形の帽子もはやった。