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鍋島直正の財政再建策ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(6-31-91-2)

鍋島直正の財政再建策ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(6-31-91-2)

第6編  大政維新
第31巻 東北征定
第91章 新明治政府の財政(慶応4年ー明治元年 1868年 54才)

鍋島直正の財政再建策に関する岩倉具視の話し。

「鍋島直正は、財政困難に立ち向かった苦労人であった。直正が自分(岩倉具視)にいろいろ話したことは、その後ですこぶる感心することが多かった。

 

徳川幕藩体制下での各藩の財政は、租税収入がほとんど固定し、他方人口が増加して、配下の武士に支給する禄は足らず、その予算はほとんど余裕がなかった。  自分(直正)が家督相続で佐賀藩・藩主となったときは、金は借りられるだけ借り、年貢は取れるだけ取り、米は売り尽くし、貧乏を極めた時であった。加えて大型台風が来て、田畑は荒らされた。このような困難な状態に陥ってしまい、ただ自分の衣食住を非常の倹約をし、家中の者とともに貧困を忍び、余裕の金を絞り出すよりほかに手立てはなかった。
このような窮乏状態を続けたが、すでに絞り尽くされた糟で、ほとんど余裕の金を生ずることもなく、いかんともすることができないまま、年を送った。
ところが、財源は意外のところにあるもので、山川、海、川沢、林野などのさして利益がないような非課税の土地とそこの住民との間に存在していた。また配下の人民が集合して労働するところも、商売が盛んとなり、自ら歳入が湧き出てくるものであった。このように、節約をして庶民の生産を奨励した結果、自然に所々から生産物の歳入を生じて、財政に余裕を生じることになった。それに応じて1年1年と財政引き締めを緩和する方向に舵を取った。
思うに、徳川幕府の領地は300万石と称するけれども、実際は我が佐賀藩と同じく、歳入はことごとく固定支出に割り当てられ、わずかの余裕もなかったはずである。しかし、その所管する広大なる山川、林野にはまさに一大財政収入の道がある。のみならず、大阪、長崎など人口が密集している都会やもしくは人口が集中する産業が盛んになるところには、富が生じ、多大の財政収入の源となるべきものがある。したがって、これらから新たに生ずる歳入はあるはずである。
京都、大阪の富豪は、言うまでもない。現に長崎会所のようなところも、貿易が盛んになるとともに、その収入はますます多くなることは、自分(直正)が常に耳にするところである。
したがって、財政収入に田畑の租税のみ頼んではいけない。けだし、庶民の心に不安を抱かさせれば、自然に事業は閉じられることになる。庶民が安堵して事業に従事できるようにすれば、必ず自ら財政利益を開くものである。その対応はすこぶる微妙で、著しく財政に影響するものである。ゆえに政治をなすには、努めて人心を安堵させ、その中より財源をわき出させるようにすべきである。
このように自分の経験をひいて説明し、合戦(戦争)も金次第なり。現代の合戦は、軍艦、大小の鉄砲の機械武器攻めなれば、なおさら金次第である。貧乏では合戦はできない。
当時、予(岩倉)はこれを聞いてそれほど感心しなかったが、後にいたって明治政府の財政収入が官吏の給与に割り付けられて余裕がなく、結局、政府財源は関税の歳入がほとんどを占めるに至った。その後、政府活動が生じるにつれて、庶民の事業から、歳入の増加を見るにいたった。まさに直正が言う通り、田畑以外の別の道より生じた。」

 

(コメント:鍋島直正は、本当に経済通だったのだ。感心する。
現代は将来に安堵が持てず、金利がつく当てもないまま将来に備えて貯金する状況でしょうか。最近(平成29年4月)、消費支出にしめる食事代の割合(エンゲル係数)は25.8%に上がっています。マスコミが言う景気が持ち直したというのとちょっと違う感じがします。)

 

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