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道理をもって局外中立を主張し、初めての日英条約に当たった長崎奉行水野筑後守ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-18-55-2)

道理をもって局外中立を主張し、初めての日英条約に当たった長崎奉行水野筑後守ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-18-55-2)

道理をもって局外中立を主張し、初めての日英条約に当たった長崎奉行水野筑後守ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-18-55-2)

第4編 開国の初期
第18巻 開国の初歩
第55章 オランダ人伝習の起こり(安政元年 1854年 41才)

道理をもって局外中立を主張し、初めての日英条約に当たった長崎奉行水野筑後守

・そのころ、ロシアと英仏は戦争をしていた(クリミヤ戦争)。当時、香港の防衛体制は弱く、イギリスは、ロシア・プチャーチン艦隊の襲撃をおそれ、日本近海で撃沈しようとしていた。もし、プチャーチン軍艦が日本の港内にあれば砲撃して撃沈すべく、長崎奉行の許可をもらいに来た。かくて、英国軍艦4艘が長崎に渡来した。

 佐賀藩は、フェートン号事件があったため、英国を「がさつ」な国と警戒していた。しかし、今回のキャップテンはすこぶる温和であった。他方、日本は、厳重警戒をとり、陣笠で着飾り、古風の華美で装飾し、武威を示したため、極めて奇観であった。
また、英国軍艦の乗組員の1人は、日本語で、「肴を買いたい。金は沢山ある。私は、尾張国の御米船に乗り込んでいたもので、16歳の時漂流し、7年前薩摩に連れ戻されたが、命にかかわると言われ、やむなくイギリスに帰った。18歳の妻がいる。現在、米方役を務めており、帰りたいとは思わない。」と語った。

英艦提督は、急使で江戸に連絡するよう要請した。早走りで1週間内に江戸に届いた。 幕府は、長崎奉行に全権を委任した。

 長崎西役所で談判を開始した。イギリスは、「当国は、日本の法に背くことはない。ただクリミヤ戦争中で、ロシアの敵船に逢えば戦闘することになるので、あらかじめ伺った次第である。」と申し入れた。奉行水野筑後守は、「港内にては戦闘は認めない。沖合、海上にてやるべし。」と答えた。

その談判の結果、長崎、函館にて、船の修理を行い、食料を買い入れるのを許した。イギリス提督が、重ねて「戦争のためにかなわないか。」と尋ねたが、水野は、「戦争のためには許せば、万国みな我が敵となるため、あいかなわず」と答えた。
そして、3月23日、その旨の、日英条約を締結した。これが、初めての日英間の条約となった。

 (コメント:長崎奉行水野は、局外中立の道理をもって、イギリス提督の申し入れを拒否しています。日本語を話す乗組員とはジョン万次郎でしょうか。)

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