鍋島直正は、必要なことは、直ちに実行するタイプであったー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-22-65)
第4編 開国の初期
第22巻 条約頒布 公武合体の起こり
第65章 五カ国条約頒布(安政6年 1859年 46才)
・鍋島直正は、必要なことは、直ちに実行するタイプであった。
・当時、佐賀藩では、蘭学を武士必須の学科と定めていた。履修の範囲は、非常に広かった。
まず、長崎伝習から、西洋式銃陣、砲術から始まり、造船、機械、採鉱、冶金、電気、薬学に及び、艦船製造の資金に備えて、利殖法も教えていた。
というのは、富国の西洋の知識を求めなければ、富国強兵の目的を達することはできないからと言うことに気がついたからである。それで、蘭学は、ますます広く、盛んになった。もっとも、一般の人は、化学を末技、操船を船頭のこととして、卑しんでいた。
・7月、長崎伝習所も閉鎖となって引き払い、今度は、三重津(佐賀市川副町早津江)に、海軍所を創設した。
そこの学校、調練場、戦艦では、汽船、帆船の運用、海上砲術、銃陣射法を習わせた。
・直正公は、必要なものは、ぐずぐず猶予することができないたちで、帆船操縦のために、飛雲丸を購入し、修繕の機器を備えさせ、機械・造船に必要なものは、直ちに、当局担当者にはからず、オランダ領事と懇意であった佐野に購入させた。
そこで、近習らは、佐野が西洋癖を振り回して、殿を欺き、酒宴に浸りて公金を乱用しているとの噂を放った。
(コメント:必要なことは直ちにやる。直正公の優れた資質です。なかなかまねできません。)
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