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鍋島藩の大奥—–再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-9-1)

再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-9-1) ー鍋島藩の大奥

鍋島直正公伝第1編

目録

第1編 公の出生以前と幼時

第3巻 巍松(斉直)公の政治

第9章 文化の奢侈状態

佐賀の女寵佞幸–(大奥)

佐賀では、藩主の妾を「御通(かよい)女中」と言う。寝室で給仕する「はしため」(女中)の意味で、「目かけ」、「手かけ」の呼び方と同じである。他の藩においても、ほぼ同様である。それゆえに、通女中の数は4人以上となるを必要とする。大藩主にありては、その倍の人数を給仕させても、淫乱とまではいわない。

公の通女中の中で最も寵愛されたのが、古賀殻堂の日記にある「綾川」「九尾狐」に相当する。この女は、直塚孫八の妹にて、名前を「お光」という。 1803年末に、公が江戸にて姚姫と婚礼し、やがて帰国の際、このお光を上げて、御通女中とせられたのであった。 綾川は、1605年に長男を出生し、他方、江戸でも、姚姫が妊娠して跡継ぎの誕生を見た。その後、綾川は毎年のように子供を産み、江戸の正妻も分娩せられた。されば、佐賀藩主が1年の5分の1を江戸で暮らし、 5分の4を佐賀で暮らすことからすれば、綾川への寵愛は 正妻を圧倒しているとまでの形跡はない。

かくて、1805年、佐賀城の「二の丸」の御部屋を「奥」と呼べとの命令が、江戸より達した。佐賀藩の重役は、みんなこれを承諾せず、執政・鍋島越後よりお断りを申し出た。公は、これに対して何の沙汰もなかったので、佐賀藩の内務部でだけ「奥」と呼び、外務部では依然として「御部屋」と呼んでいた。世間では、綾川を「国御前」と呼ぶ命令があるというが、それは事実を誤って伝えているのだ。

綾川以外の御通女中には、「滝浦」「歌仙」「滝江」がいた。また公が家督相続された年、 江戸にて三田玄仙と言う医者を抱えられ、「お秀」という女を玄仙の養女となして、御通女中にすすめしめられた。ついで、医師・津田松園を仮親として、佐賀に下された。また「おます」という女も松園の養女として、召し使われた。その他の峯本氏、大須賀氏等の女中もあったが、その中には程なくお側の侍に賜りて嫁となった者もあった。

もっとも、お城の「二の丸」の部屋を「奥」と呼べとの命令と、江戸抱えの旅女中の「二の丸」入りとは、大いに、佐賀藩士の感情を害した。佐賀藩士らは、国と藩との二重鎖国の保守的思想を抱いていたために、「奥」と呼ぶのは旧例に反する処置であると主張し、重臣が引責する事態となり、その結果、「女寵佞幸」とのひどい評価を思わせる結果となった。

それから、佐賀藩は、経費削減の整理を断行し、江戸抱え女中の数を減らし、そのうち27人を佐賀に送還した。その中に「幾浦」という妾がいた。江戸の生まれで、飴屋の娘であったが、公の寵愛を受け、江戸では「表御部屋」と呼ばれ、一般では「御前様次席」とまで言われたほどであった。

江戸抱えの旅女中が、佐賀に来ることになったが、佐賀人は他国の人を「旅の者」と呼んで排斥・嫌うこと、はなはだしく、佐賀藩の法律でも、他の領内の者が城内に入るを厳禁していた。この「幾浦」以下27人の旅女をして、公の居城二の丸に乗り込ませたところ、たちまちにして議論が沸騰した。担当役人は「御規則違いに相成るを気付かなかった」との責任を取る書面を提出した。御年寄・鍋島主水のみがこの議論に反対して激論に及び、重役の間は二派に分かれた。内部の重役は、これを対岸の火事と見ていたので、対外担当では、ますます反感をきたすようになった。その後、この「旅の者」の二の丸入りは、うやむやになってしまった。

(コメント:生々しく詳細に記されています。現在では、名誉毀損・プライバシーの侵害という問題もあって、このような生々しい記述は目にすることはなくなりました。小説の中でさえ、下手すると損害賠償といわれてしまいます。
当時も、殿様が「大奥」にあこがれていたのが伝わってきます。家来は、佐賀城内に、そんな「奥」なんて、とんでもないということでしょう。

お側の侍も、使い古しの「御通女中」を賜われても、素直に「ありがたき幸せに存じ候」と言ったんでしょうか。
なお、お抱え女中も、リストラされていたのには気が及びませんでした。なくても藩政には影響がありません。)。
「御前様次席」といえば、つい「次席検事」を連想してしまいました。