長崎が、欧州の新知識獲得、国事策動の震源地となるー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-27-81)
第5編 公の国事周旋
・攘夷を主張していた薩長は、外国船から砲撃を受けるや、たちまちに目が覚めて、欧州知識の輸入が急務であることを覚った。両藩ともに、学生を英国に留学させた。 薩摩の寺島宗則、五代友厚は、長崎から10人の留学生を英国に留学させた。
・他方、フランスは、幕府の小栗上野介と謀り、横須賀に海軍造船所を建設し、陸軍をフランス式に改め、フランス語教習所を設立した。
時に、イギリス人グラバーなる者は、わずかの資本で来日し、諸藩が攘夷熱が盛んな頃、武器・艦船の注文を受け、佐賀藩にも取り入り、巨万の富を蓄えた。
・大隈重信らも、私貿易の機先を制して、商人に佐賀産物の輸出をさせ巨万の富を得させて、その一部の利益を書生の学費に充てさせた。ここに、政治・法律・その他科学の知識を得る道が開かれた。
(コメント:時代の変革時には、新しい知識を求める流れに身を置き、新知識を身につけるよう務める必要性がわかります。従来の知識では、これまで経験したことのない新しい環境や武器・生産手段等に対して対応できません。
・現在、日本の旅行業界は、外国人のインバウンドに躍起です。150年も前に、インバウンドの重要さを主張していた外国人がいたとは驚きです。残念ながら、当時は理解できなかったようです。
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