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16万の幕府軍は、8千の長州軍にどうして敗れたのかー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-28-83)

16万の幕府軍は、8千の長州軍にどうして敗れたのかー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-28-83)

第5編  公の国事周旋
第28巻 長州再征伐 家茂将軍 死す
第83章 長州征伐の幕府軍敗れ、家茂将軍死す(慶応2年 1866年 53才)

16万の幕府軍は、8千の長州軍にどうして敗れたのか

1,当時の政治状況

家茂将軍は、長州を許してその反省をまつとの意見であったが、閣老板倉、小笠原壱岐守は、これを好まなかった。
原市之進を信用していた一橋慶喜は、長州藩の領地を半減すべしとの強硬論であった。

長州の方は、「死をもって藩の領土を固守せんとし、この主張が容れられなければ、水戸藩士の様に斬首されてもかまわない。」との決心を固めた。
薩摩は、当初、会津とともに長州征伐を主張したが、後で長州に同情をおぼえた。そこに、坂本龍馬が、西郷を説得して、薩長連合を謀った。長州の木戸は、京都に上り、西郷・大久保と密議をこらし、これに土佐の坂本、中岡も加わり、長州再征伐が非であるとして、薩摩は、ついに出兵を止めた。この背後には、英国の公使は、これをそそのかし、自ら下関から鹿児島に赴いた。
尾張も同様であった。

2,幕府の長州征伐決定と長州との戦い

幕府の強硬論者は、「長州征伐を断行し、幕府の大軍を持って長州を撃破し、しかる後、薩摩をも併せくじいて、幕府の権威を回復すべきである。もし、そうせずに、この機会を失えば、大事はついになすことができない。」と主張した。
6月、幕府の閣議は、長州征伐に決定した。

長州征伐につき、勅語がおり、紀伊中納言が総督となり、小笠原壱岐守が、小倉城に赴いて九州の軍を指揮することになった。
長州兵は、農民までミニー銃を持ち、火縄銃の幕府軍を破った。また、諸藩も兵を出さなかった。長州の奇兵隊が、関門海峡を渡って、門司に攻め入った際、幕府の小笠原が、九州の兵を招集しようとした。

しかし、直正公は、愚鈍でとつ弁な家来を使者として出し、「いかなる命令があるとも、国元へ申し遣わし、指図を得た上で」と答え、ほかを言うなかれ、と命じた。
肥後藩は、少し接戦したが、死傷者を出すや直ちに引き上げた。
フランス軍艦は、小倉の海に遊撃し、幕府の声援をするかのような態度であった。

7月20日、家茂将軍は21才で亡くなった。
その間、長州の兵は、濱田城を、そして小倉城を落とした。そこで、幕府の小笠原は、船で長崎に逃げたため、九州の兵は、ことごとく解散して帰った。

3,幕府と長州との和解

9月2日、勝海舟は、広島・厳島で、長州の広沢らと談判し、「将軍が亡くなり、国事多難である。海外列強は侵略の機会をうかがっている。インドの轍を踏まないためにも、大政を一新し、我が国の独立を確立すべきである。一橋慶喜の考えもここにあり、兵を収めて追撃するなかれ、との考えである。」と説明し、長州との間で協定が成立した。

4,佐賀藩での論調

・江藤新平は、薩摩が長州を助けたこと、またフランス船が小倉に接近したことを聞き、これを口実に薩長と結び、国家統治の決断をされるべし。ここは、ロシアの彼得(ピョートル)大帝、秦の孝公の例を引き、鍋島公は大偉業を建つべし、との論を唱えた。
副島、大隈は、幕府はもはや時局を救うことはできないのであれば、はやくこれを倒して大政を革新すべし、との論を唱えた。
直正公は、幕府は徳川の政体である以上、親藩(譜代)を排して、外様が将軍の大政に口出しするのは不可である、との考えであった。また、健康状態がよくなく、頑固な胃腸カタルがひどくなり、けいれんと下痢、神経衰弱で苦しんでいた。

 

息子・鍋島直大に譲った藩政は、保守的で、新事業を中止し、ひたすら財政の整理につとめ、大事をとって、人心を和らげることのみを計った。

(コメント:幕府側が、いくら招集できる兵が多くても、戦意がない兵では勝てません。対する長州兵は、負ければ打ち首との決死の覚悟であった上に、武器も最新式の銃で、幕府側の火縄銃に対して優勢だったことがわかります。
当時、江藤新平が、ロシアのピョートル大帝の業績を知っていたことが、驚きです。当時の日本人では、ロシアの地理的位置を知っている人さえ少なかった時代に、ロシアの歴史もピョートル大帝も知っていて、それを引用して主君の鍋島直正に進言しているところがすごいです。
これに対して、直正公の考えは、冴えません。取り巻く政治環境が変わったにもかかわらず、従来の徳川幕府体制の考えで、それから抜けてることができませんでした。この考えの違いが、幕末から明治にかけての活躍できるかどうかの分かれ目だったのでしょう。

鍋島直正公の息子・直大の統治のやり方が、新しいモノには手を出さず保守的で、財務の健全性を維持することのみに努めていることは、興味深いです。
これは、現代でも、1代目社長が会社を大きく築き上げ、これを継いだ2代目社長が、この会社を守ろうとして、失敗するかもしれない新しいことをやろうとせず、健全財政を維持することにのみを頭に置いていることと同じです。
大きい会社を相続した子供は、それを傾かせたり倒産させたりすることに恐れをなして、新しい挑戦をする意欲が出てこないか、慎重になりすぎて尻込みするのかもしれません。)

 

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