下関(馬関)戦争・薩英戦争の情況と佐賀藩の体勢ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-25-76)
第5編 公の国事周旋
第25巻 外国艦船の集合、攘夷の宣告・決行
第76章 外国軍艦の長州・薩摩を砲撃(文久3年 1863年 50才)
馬関(下関)戦争・薩英戦争の情況と佐賀藩の体勢
1,長州の攘夷決行(馬関(下関)戦争)
(久米は言う)攘夷期限の空騒ぎは、「八百長相撲の力こぶ」の観を呈した。
しかし、長州藩は、5月10日、くそまじめに攘夷を実行し、下関海峡に停泊していたアメリカ商船に向けて砲撃を開始した。これが、攘夷断行の最初の砲撃であった。続いて、23日、フランス艦船に砲撃を加え、25日には、日本と親交のあるオランダ軍艦にも砲撃を加えた。
これに対して、朝廷は、長州藩を褒賞した。
そこで、アメリカ軍艦は、6月10日、長州藩の汽船に砲撃して損害をあたえたものの、長州藩からの砲撃で即死4名、負傷者7名の被害を受けた。ついで、フランス軍艦は、長州藩大砲の着弾地点の手前から射撃を加えて砲台を破壊して上陸し、砲台の木製部分を焼いて破壊した。
そこで、長州藩は、西洋大砲に恐怖感を生じ、その後停泊したイギリス船に対しては、なんのなすところもなかった。