黒船到来。その時、朝廷はどう対応したか。ー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-17-50-3)
第4編 開国の初期
第17巻 米ロの使節渡来
第50章 長崎新砲台成る(嘉永6年 1853年 40才)
「黒船到来。その時、幕府はどう対応したか。幕府崩壊の原因を探る」からの続き
・黒船到来。その時、朝廷はどう対応したか。
・すでに1846年(弘化3年)に朝廷から外国防衛について幕府に問い合わせがあっていたので、今回の黒船到来も幕府から朝廷に申し上げることにした。
そして朝廷からは「こと、国体にかかりて安からずとて、7社7か寺にご祈祷あるべき仰せで」を被った。
(久米は言う。これによって、幕府は、徳川家康が定めた公武法制18か条の第2条に定めていた「政治については、朝廷に申し上げるに及ばず」との定めを破棄ししてしまったのだと。徳川家康の定め以来、日本の政治は、将軍が自ら責任を持って決定し、朝廷はただ官位などを幕府の推薦によって授与するとともに、全国の社寺を支配するのみであった。そのため、外国人は、天皇をローマ法王の様に考えていたほどであった。
これから、外交に関しては、朝廷の名を仰ぎ、諸侯の意見を聞き、しかる後にこれを決することとなった。政局の大変化はこれから始まった。)