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佐賀藩は、幕末、東北を探検すー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-20-60-4)

佐賀藩は、幕末、東北を探検すー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-20-60-4)

佐賀藩は、幕末、東北を探検すー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-20-60-4)

第4編 開国の初期
第20巻 陸海軍とオランダ・アメリカとの条約改正
第60章 オランダ・アメリカ領事の貿易勧告(安政3年 1856年 43才)

佐賀藩は、幕末、東北を探検す

・(久米は言う) 幕府が、函館港を開いた以上、蝦夷(北海道) 、樺太、千島などロシアに連なる北方の防衛は、西方の長崎の防衛と相対応するものでなければならない。
直正公は、天草の海産物や鉱物を北海道に輸出して、北海道を開拓し北方の防衛に遺憾がないようにすべきとの考えを持っていた。そのため、直正公は、この夏、島義勇に、東北遊学を命じ、奥羽から北海道を走破して探検することを命じた。島は、樺太深くにわたって探検をした。

そのこともあって、江藤新平は、家が貧しいために蘭学寮に入ることができず、書記をしていたが、次のように論じていた。
日本列島の周囲に海上防衛を設けて自ら防衛するのは愚かである。よろしく軍艦を作って、海外に進出するとともに、平時には貿易をして富国強兵を図るべきであり、あわせて北海道の資源を開拓すべきである。防衛の地としては、鉄砲を備えた長崎や函館の2つの玄関があれば足りる、と。

(コメント:幕末、いまだ北海道の実情もよくわからない時代に、九州にいて、東北や北海道の開拓を考え、家来に探検を命じるという直正公の発想は、現代においてもなかなか出てこない発想です。九州の他の藩から、このような発想が出てきたとか、家来を探検させたとか言うような事は聞いたことがありません。このような発想と実行力があったからこそ、幕末から明治にかけて活躍することになったのでしょう。この発想は、長崎警備で、オランダを通じて、世界情勢の情報を収集していたからありえたのでしょう。)

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