境界確定の訴え(江戸時代、佐賀藩と久留米藩との境界)1ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-4-11-1)
第1編 公の出生以前と幼時
第3巻 齊直公の政治
第9章 文化の奢侈状態
・境界確定の訴え(江戸時代、佐賀藩と久留米藩との境界)その1
1、佐賀藩の東の境界は、久留米藩と筑後川を挟んで接している。佐賀藩の前身龍造寺の時代、佐賀藩は、筑後川の川原に十分の余地をとって、千栗(ちくり、地名)から朝日山(新鳥栖駅南にある山)の西のふもとまで大堤防を築き、筑後川の氾濫に備えた。これを千栗土居と称している。対岸の久留米藩は、東から流れてくる筑後川の屈曲する箇所にあたる低地にある。