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直正公の江戸出発時の屈辱(若き日の屈辱体験は人生を決定づける)ー鍋島直正公伝を読む(2-6-16-1)

直正公の江戸出発時の屈辱(若き日の屈辱体験は人生を決定づける)ー鍋島直正公伝を読む(2-6-16-1)

直正公の江戸出発時の屈辱(若き日の屈辱体験は人生を決定づける)ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(2-6-16-1)

第2編 公の初政治

第6巻 公入部(家督相続)の新政治

第16章 公の入部

・直正公の江戸出発時の屈辱
・1830年(天保元年)、直正公は、17歳となり、家督を相続する。3月22日朝、大名行列で装いを豪華にして堂々と、江戸から佐賀へ出発する。ところが、行列が品川の本陣に到着するや、午後になっても止まって出発しない。夕方になっても動かない。
結局、従者が事情を打ち明ける。江戸屋敷の用途に使うため、掛けで米、酒、味噌、醤油、薪炭を買ったが、未払いであった。そこで、売り主の商人が、代金請求を詰め寄るも支払いをなすことができなかった。商人等は座り込んで動かず、邸内は大混雑を極め、行列のお供の者もそこから脱することができず、出発が遅れた次第、と説明した。

 直正公は、これを聞き、「これまで財政困難と聞いて承知していたが、ここまで甚だしいとは、思わなかった。帰国の途に上るに当たり、微賤の商人へ日用品の代価すら支払うことができず、お供の侍を抑留せしめて1日を無駄にするとは。藩の財政はここまで窮迫したか。」と涙を流された。
直正公の恥辱を雪(そそ)いで、佐賀藩を興隆しようとの固い決心は、ここでなされた。お供の者も、それをうかがい知り、身のすくむ思いであった。夜になって、ようやく品川を出発した。

・3月28日、佐賀領内の目田原では、公は馬に乗って前々年台風の被害に遭った八田宿の破屋等を見て回られた。
これまでの殿様の行列といえば、「人払い」いかめしく、駕籠の窓は閉じられて、人々は皆声を潜めるのを常としていた。直正公の方法は、人々にとってありがたいものであった。これは、伝記作家の常套の修飾語のように見えるけれども、決してそうではない。

・5月1日、公は、かくまで行き詰まりては、急に立ち直る道もつきかねるとして、質素倹約、粗衣粗食令を出した。
また、領内で、貧民救助の沙汰をとった。
ところが、これらのこと、すなわち、公が小民に接近せられるのを見て、「君主の威厳を毀損する軽々しき挙動なり」との非難が聞こえた。
従来の改革の議論では、常に内部に異論が多く、身辺に仕える者は習慣に引きずられ、形式にこだわり、姑息に流れやすいのが、通弊である。改革を阻止する病は、多くこれより発する。とかく、改革は旧き慣習の打破を急務とするため、多くの紛糾を引き起こすものである。

・6月27日、公は、長崎で、オランダ商船に乗船す。これまで例がないことであった。

(コメント:屈辱は、人を卓越した人物にします。長州藩の場合も、徳川幕府から不当にも領地を削られ、それが、200年後、倒幕・明治維新のエネルギーになったのです。直正もこれが生涯の精神的支柱になったのではないかとの思いがします。若き日の屈辱体験は、人生を決定づけます。人にもよりけりですが。)

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