起業の発想力ー保守派の妬みによる攻撃ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(3-11-33-1)
第3編 政績発展
第11巻 更張(さらなる発展)事務整理
第33章 文教武備の発展
1840年(天保11年) 直正公27歳
・佐賀藩と水戸藩との交際は、親密の度合いを増すようになり、さらに、近侍の永山徳夫に奥羽を視察させた。九州人から見た場合、奥羽は荒漠たる土地で開拓の可能性があると写った。これが、直正公が、後で北海道開拓に注目するようになったきっかけであった。 (その後、佐賀藩民は、釧路に開拓しに出かけます。)
・島津斉彬公は、直正公と母方の従兄弟で5年年上であったが、諸藩にも尊敬され、直正公も深く親交していた。
起業の発想力
・この年に、直正公は、秘密に研究していた西洋式の火術を採用し公式に発表した。
何故に、西洋式火術の採用にこのような秘密を必要としたかというと、これには深い歴史がある。
徳川の鎖国の根本的な理由は、当時の日本人がキリシタンを魔法・邪宗として恐怖した感情にある。これが攘夷論の根底に横たわる最大の原因である。
西洋の体制が大いに変化して、国境を開放して通商貿易を許さないわけにはいかない時代に突入したけれども、幕府がこの問題を協議すると、結論は必ず従来の国法を固守して開放を拒絶すると言う結果になった。
その理由は、外国人は、貿易に名を借りて密かにキリシタンの魔法を使い、国民の心を誘惑し風俗を撹乱して日本国を奪わんとする野心があるといって、これを憎悪し、忌避し、恐怖したことにある。
そのために開国論は、常に峻烈な攻撃を受けた。また西洋知識の輸入を拒んだ。
蘭学は、天文・医学から発生し、薬学、そして理化学に及んだが、それらの研究に伴って、当時の日本人が無知なため、物理・化学現象が奇怪に見え、世間の者は衝撃を受けて、恐怖/・驚愕し、「魔法だ」との猜疑心を起こした。これらの感情が重なりあい、外来の知識の吸収に妨害を加えた。
佐賀藩は長崎に近いため、西洋医学はほとんど普及した藩だと想像されるが、決してそうではなかった。例えば、腹痛患者に、酒石酸と重炭酸ソーダと調合したものを与えると冷水が急に沸騰するので、それを見た者は「魔法を使った」と恐れおののいた。このような世間の常識の間で、西洋の知識を輸入して人々を導かんと努力したる人々の危険・困難は想像する以上のものがある。
当時当時、西洋列強により中国のアヘン戦争の話を伝え聞いていたのに、わが国の防衛は無力にひとしきほどであった。
それにもかかわらず、幕府は、依然として大型船の製造を禁じ、大砲を鋳造する方法もなく、種子島式小銃を固持した。これは、幕府が魔法と呼ぶ恐怖心に脅かさされたのと、新型の武器を研究する藩を謀反があると疑ったためである。
偏狭な武士は、ほとんど文盲で、彼らの攘夷の叫びは、ただ死を決して外国の軍艦に乗り込み、片っ端から日本刀でなで切りするか、あるいは彼らを陸上に導き、一払いになぎ倒すか、打ち切るべきかなどと、いたずらに力みかえった空想によるものに過ぎなかった。これが当時の志士の知識である。
当時の漢学者は、このような精神を鼓舞するだけで、別に何の方策も持っていなかった。
モリソン号の事件の際も、幕府は漢学者鳥居輝蔵と蘭学に通じた江川太郎の両名に要衝となる土地を検査させた。 江川の報告はポイントを得たものだったのに対し、鳥居の報告は要領を得ず世間の軽蔑を招いた。ここで、漢学者の蘭学者を嫉妬することが極まり、開国論を主張した渡辺華山・高野長英らに対して、国家を誤る虚言だと証拠も無いのに告訴して逮捕した。ついに自殺する者が出た。
この鳥居は、名前を「甲斐守」と改めて目付(検察官みたいなもの)となり、水野越前守の信頼を得て、一時大いに登用されたが、あとで遂に人望を失って退けられるに至った。
このように、新旧思想が対立する時代にわたって、直正公は、表面上儒学を奨励しながら、密かに西洋火術を研究させ、大砲を鋳造し、長崎の砲台を堅牢にする計画をたて、機会をまたれた。