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先代鍋島治茂(泰国)の振興策ー幕末・維新の日本人群像・鍋島直正公伝を読む(1-1-3)

ー貧乏佐賀藩を幕末の雄藩にする

鍋島直正公伝第1編

第1編 公の出生以前と幼時

第1巻 泰国公以前

第3章 泰国公の振興

・泰国公の人格

・弘道館の建設

・時代の人物 :
学問を嫌うのは、すべての武士の風潮であった。 二重鎖国の佐賀藩にあっては、世界の大勢や海外の事情を知らなかった。聡明なる者だけが、時代の移り変わりを感知していた。

 

・勤王論の始まり

・幕府は異学を禁じた。

・攘夷論、海防策の起源

・秋役の職制(佐賀藩の行政組織)
佐賀藩の領地は豊かで,公称36万石だったが、実際には支藩を合わせて27万石であった。長州藩に匹敵する。しかし、佐賀藩の経済は裕福ではなかった。支藩が領地の3分の1を管理して、実質的には連邦制であった。しかも、戦国時代に、家来をたくさん持ってたために、藩政府の実収入は十万石で、凶作の年は8万石にも足らなかった。
林野山海の面積は、領地の10分の9に及び、「小物成」と意って、軍事用のために厳格に管理されていた。収益はほとんどなかった。

藩の政治は、
・「租米」を、家々の下郎衆に配分し、これを統率し
・地方の警察業務を行い
・家を統治し
・庶民を取り締まること
であった。「租米」とは、昔、地頭が「田所」の指図で収入としたものである。

・藩の財政は、いってみれば軍隊の費用で、「雑務」と言って、あまり重きは置かれなかった。才能を費やす必要性は認められなかった。
・蔵方頭人は、雑務を担当し、米・銀を扱う「会所」にあった。
・年行司頭人は、戸籍を管理していた。
これらの担当は、毎年9月限りであった。年度替わりは、収穫のある9月であった。担当となるのを「当役」と言った。当局家老の意味である。その藩政府を「請役所」と言った。要は、租役を負担する多くの農民が妨害を受けることなく働けるようにすることであった。

・「会所」とは、藩米等を管理する倉庫で、ここで御用達商人を立ち合わせ、米などの値段を決め、販売するようにしていた。長崎会所では、役人と商人が集まって、輸出入品の値段を決めて販売していた。
・刑獄は、評定所に当たり、聴断するところであった。
・租役は、会所の蔵方で処理していた。

・大荘屋を廃止して、代官を置くように改正した。
荘屋とは、古の「田所」が残っていた慣行で、荘園にかかる租税、課役等を司る収税官で、武士でないものが担当していた。銭・米の勘定を卑しむ風潮があって、地位は低かった。
・武士は、言ってみれば「田所」から配当を受ける米を収受しているだけで、株主が会社から利益配当を受けるのと同じようなもので、配当の計算を仔細に検討する能力もなかった。

・代官所の設置ー藩内7カ所に置いた。商業工業が繁盛していたのは、有田・伊万里であった。

・「六府方」の殖産興業ー特別会計で藩庫に属した。増益のための工夫は乏しかった。
1,「山方 里山 方」:山・林・堤防・沼・海岸など「田籍」に掲載していない土地を管轄した。材木・薪炭、はぜ、塩田、海産物を管理していた。もっとも利益が多かった。
2,「牧方」:牧地管理。
3,「陶器方」
4,「搦(からみ)方」:新田開発
5,「貸付方」:金銭貸し付け
6,「講方」:宝くじ