幕末・維新の日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-0-1) ー鍋島直正公伝の概要ー幕末の世界の大勢
鍋島直正公伝 第1編 目録
第1編 公の出生以前と幼時
序論(鍋島直正公伝の概要)
幕末の世界の大勢
1620年(寛永)以来 200年の間、日本に、外国の勢力が迫ってくることはなく、しばらく泰平の世を享楽できた。それで、長崎の港だけを開いて、オランダ、中国に貿易を許してきた。我が肥前藩は、筑前藩と共に、その重要な長崎防御の重責を受けて、 1年ごとに交代して警護(警備)をなしてきた。しかし、長崎をめぐる状況は平穏無事であった。それは、徳川幕府の政策が良かったためではなく、世界の大勢によるところである。
しかるに、フランス大革命の後、ナポレオンが決起してヨーロッパを席巻し、オランダを併合した。それをみるや、フランスに極力対抗せんとするイギリスは、これに乗じて、東洋におけるオランダ植民地を奪おうとした。そこで、艦隊を東に進めて、まず東洋の後方基地たるバダビア(ジャカルタ)を占領した。さらに進んで、遠く我が長崎出島のオランダ船捕獲に向かわせた。これが1808年、文化5年の秋のことである。 たまたま警護に当たっていた我が肥前藩は、長く戦争がなかったことに慣れていたため、狼狽し対応を誤り、イギリス軍艦が欲しいままに跳梁するのを見過ごした嫌いがあった。そのため、先代の鍋島齊直公は、責任をとって、幕府の譴責を受けるを受けざるに至った。
これより先、ロシアは、次第に領土を東方に拡張し、 1644年、すでに黒竜江岸にでてきて、我が奥蝦夷と対岸するに至った。それから45年をへて、中国の清とネルチンスク条約を結び、さらに23年をへてカムチャツカを征服した。それ以来、北方の防衛は、志士の標語となった。
そのため、ロシアについては、早くから、わが邦人の注意するところとなった。 しかし、他の列強については、未だよくこれを知る者もなかったため、文化5年のイギリス軍艦渡来は、実に青天の霹靂であった。
ところが、 10年もたたないのに、ナポレオン1世が、転覆すると、東洋のオランダ領植民地も復旧した。それで、我が長崎には、再びイギリスの影を見ることはなかった。
しかし「雨が降る前に、雨戸を閉めよ」と言うように、イギリスとフランスとの戦いが小康状態の間に、ヨーロッパは東洋に力を伸ばす余裕が生じて、その計画を立てようとした。まさに、日本はその戸を閉じる時期にさしかかった。
1818年、文政元年、イギリスはシンガポールの新航路を開いて、東洋での交通が自由自在となった。1834年には、東インド会社の特権を廃止し、イギリス国民たるものは誰でも清国と通商する自由を許した。また、外交官を清国に駐在させて、自国民の通商の保護に当たらせた。そのため1840年にいたってはアヘン戦争を引き起こし、その結果、イギリスは、清国に広東の対岸・香港島を割譲せしめ、これを本拠として、その勢力を台湾、琉球より我が日本に伸ばそうとの形勢をなした。
他方、ロシアは、 1種の嫉妬心を生じて、ますます南下の計画を策略し、フランスもこれに刺激されて、しきりに植民地を東洋に広めんとした。
アメリカ合衆国も、次第に西部を開拓し、ついにロッキー山脈を超えて、アリゾナ、ネバダ、カリフォルニア等の州を版図に収めた。それで、太平洋を隔てて我が帝国と対峙するに至った。 1848年、カリフォルニア州に金鉱が発見されるや世界の金相場を狂わすと言われるほどに多量の産出があったため、太平洋岸には多数の移民を見るに至った。 その中で、漁業に従事する者は、遠くベーリング海峡。アラスカ、カムチャツカ沿岸より、ロシア人とあい競うて、クジラを追って南下し、往々、我が近海に出没するものもあるに至った。
また、貿易風に頼っていた航海が汽船ならびに海底電線などの発明により、今は自由になった。
これによって、世界の大勢は日本に集中し、到底、鎖国・孤立を守ることができなくなった。
(コメント:幕末の日本人の伝記で、このように当時の世界情勢を説明しているものに、ブログ主は今まで出会ったことがありません。これは、著者の久米が、 1871年から1年10ヶ月、岩倉具視に随行して、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、ドイツなど12カ国を1年10カ月にわたり視察して、グローバルな視点をもつことができたためでしょう。 現在でも、 2年に亘ってアメリカやヨーロッパをまわり、歓迎会に招待され、商工会議所や工場などを視察したと言う人はほとんどいないのではないでしょうか。グローバルな視点と「米欧回覧実記」(岩波文庫)にあるように百科全書的なアプローチは、他の歴史書にはありません。)
続きは、上の鍋島直正公伝ボタンををクリック