黒船到来。その時、幕府はどう対応したか。幕府崩壊の原因を探るー激動の幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(4-17-50-2)
第4編 開国の初期
第17巻 米ロの使節渡来
第50章 長崎新砲台成る(嘉永6年 1853年 40才)
・黒船到来。その時、幕府はどう対応したか。幕府崩壊の原因を探る。
・ 6月3日、アメリカの東洋艦隊の軍艦4隻が浦賀に現れる。提督はペリーで、大西洋からアフリカ喜望峰をまわり、香港、上海、琉球の那覇に到着し、小笠原諸島を経て、戦闘準備をなしたうえ浦賀に来航した。
浦賀奉行は、長崎に回航すべき旨を伝えたが、ペリーは傲然(ごうぜん)として聞き入れなかった。「直ちに江戸に乗り入れ、首相に面談して、直接に大統領の国書を渡したい。もしそれが承知できないというのであれば、砲火に訴えて天理に背く道を正すことになるゆえ、そちらも防御せられたい。和解を願うのであれば、この旗を立ててこられよ。すぐに発砲を止める。」と白旗2つを渡した。
幕府は、にわかに江戸付近の警備を命じ、大森を長州、本牧を肥後、芝・高輪を姫路、品川を越前、深川を柳川など諸藩の持ち場と定め、いずれも甲冑・陣羽織で固めさせた。
この8大名の兵隊は1万以上に及んだ。さながら戦場のようであった。黒船が江戸湾内海に入ってくれば、半鐘(はんしょう)を乱打すべきとし、火消しは直ちに持ち場を固めるべしとの命令を伝えた。
江戸市中は、さながら、今にも戦争が始まるかの騒ぎであった。江戸市中の様子は、名状しがたく、老若男女は、みな連れ添って市外へ避けようとし、旗本たちも家族を地方の領地へ避けようとするなど、右往左往のひしめきを見た。
幕府は、日本の防備の薄弱さから、結局、浦賀奉行に、アメリカ使節と面会するよう命じた。浦賀奉行は陣羽織をつけて、6月 9日、久里浜で、ペリー・将校3人と会見した。ペリーは、その場で国書を渡し、来年の初め、再び来航して返事を受け取るべし、と固く約束して会見を終えた。
12日には、さらに軍艦を江戸・本牧あたりまで乗り入れた。江戸市中は大騒動となった。日暮れにアメリカ軍艦より空砲が連発された。江戸市中は、戦争が始まったと狼狽をなすに至り、幕府閣僚も、夜半、火事装束で登城した。しかし、この空砲は、国書の受け取りを祝うもので、ペリーはその夜去った。
この事件で、攘夷論が勃発し、幕府の権威は地に落ちた。また、鎖国・開国の議論が沸騰した。
・海防掛かりの会議に参加した江川英龍から佐賀藩に、佐賀藩の反射炉に倣って大砲を鋳造したいとの依頼があり、さらに、幕府からも佐賀藩に、大砲製造の依頼があった。
・6月22日には、家慶将軍が亡くなったが、1月後の7月22日に亡くなったと発表された。
・当時、徳川幕府の政治の大事を議決していたのは、外様大名はもちろん関係させられなかった。徳川一門の3家3卿にも諮問がなかった。政治の主力は、溜間詰めにあった。(溜間とは、江戸城登城の際の控えの間の名前です。上の格から言えば、大廊下、溜間、大広間、帝鑑間、・・7部屋ありました。この部屋の大名に諮問するのです。)
その一つは、定溜:彦根の井伊家、会津の松平家、高松の松平家
2つは飛溜:伊予松山、伊勢桑名、播州姫路、武州忍の4家
その他一代溜詰めなど等があった。
その中で、名望があったのは、彦根の井伊直弼であった。
・幕府閣老等には、異国の事情に通じる者はいなかった。多くの者は、水戸の斉彬の意見を参考にするよう推薦した。結局、外様・譜代を問わず、大藩や著名な大名を登城させて、ペリーの国書の訳文を示して、意見を募ることとなった。
江戸では、「家慶将軍は、黒船渡来の警報に甚だしく驚き、にわかに病を発し亡くなった。」と噂された。
以上が、黒船到来当時の幕府や江戸庶民の光景である。
(久米は言う。家慶将軍は、その時すでに重患で、家来は、将軍の容体に障ると黒船到来を言わずにいた。しかし、ついに包み隠せず事実を報告したが、将軍の病状は、ますます悪化して22日亡くなった。これが事実である、と。
また、幕府が、黒船到来にどう対応して良いのか苦慮した事情について、
次のように述べる。
当時、大名諸侯は、江戸に居住し幕府の支配を受けて、参勤交代で1年ごとに領地に帰り、租税を収めて、武職に勤めていたが、大平の時代にあっては、ほとんど無任所に等しかった。
よって、幕府は、その尊厳を飾り立て、江戸の華飾・繁栄を助長した。その結果、傲慢・華奢を生じ、腐敗は蔓延し、他方目の前の防衛さえ怠ることとなった。
諸藩も財政に困難をきたしていた。幕府が諸藩に防衛の任務を負わせようとしたが、それに堪え得なかった。
そこで、攘夷論が勃発し、これまでの法制を破り、諸侯に外交意見を照会して、自らの権威を放棄してしまった。これから、外交に関しては、諸侯の意見を聞き、しかる後にこれを決することとなった。政局の大変化はこれから始まった。)
(コメント:久米も言うように、幕府は、アメリカ軍艦が日本に開港を求めてやってくる事は、1年前に、オランダの国書により通告されて分かっていたわけです。ただ、到来の時期だけが不明だったのです。オランダの報告で、中国がアヘン戦争で、イギリスに敗北したことも知っていました。しかし、久米が言うように、資金がないという理由で、ほとんど防衛のための措置を講じることもしなかったのです。
幕府としては、オランダからの通告で、アメリカの軍艦が来ると言っても、それは「予測」であって、確実に来ると決まっているわけではない。いままでも、来なかった。
幕僚の中には、海外事情に通じている者がなかった。通じることは、幕府内で、何ら評価されることにはならなかった。むしろ、キリシタン・蘭学を学ぶということで尊敬されなかった。アヘン戦争で中国に勝利したイギリスや欧米諸国の軍事力を評価する前に、事実を謙虚に-把握しようとはしなかった。そして、欧米諸国の力を見くびった。自国の力も欧米に比較して評価できなかった。
防衛のための資金がなかった。
このような事情は、現在の日本でも、倒産会社によく見受けられます。これまでうまくいっていたので、事業環境が、何が変化しているのか、その変化に対応するにはどうしたらいいのか、他社と自社の力の差が認識できない、どう対応するか分かっていても資金がない、そして倒産に至るというものです。
黒船当時の幕府官僚の立場になってみれば、いろいろ考えさせられます。150年前のこととは言え、参考になります。
現在( 平成28年2月)、シャープの再建問題が新聞で報道されています。2月11日付け経新聞のコラムでは、シャープの社長が現場に足を運んで社員と懇談していたことを取り上げ、「そういう時間があれば、不振事業の売却先を探して世界中の買収ファンドや投資銀行を訪ね歩くべきではなかったか。」と批判しています。
後から、色々批判するのは簡単ですが、当事者となってみれば、なかなか思うようにはいきません。革新的な新製品を出して、一発逆転を期待していたのかもしれません。シャープの社長は、会社分断・売却のために社長に就任したつもりはなかったでしょう。後からの言い分で、机上の論ではないでしょうか。
徳川幕府にしても、これまで長い間鎖国政策をとってきて、それなりに平穏に過ごして来ていたので、オランダからのアドバイスがあったとは言え、そう簡単に、開国ということには決断できなかったのでしょう。あとから言えば、もう少し海外の事情に本腰を入れて情報収集し、アヘン戦争で中国が敗北した事実を謙虚にしっかりと受け止めるべきだったのでしょう。
他方で、水戸の斉彬のように、名君と言われた藩主が、強い攘夷論者であったために、それに影響されて、海外の事情を詳しく調査する雰囲気がなかったのでしょう。逆に言えば、知らないこと・知りたくないことに注意を向けるというのは、極めて難しいことです。)
続き→黒船到来。その時、朝廷はどう対応したのか。