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幕末、財政悪化に苦しむ藩が多い中で、佐賀藩はどうして裕福であったのかー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-26-78-3)

幕末、財政悪化に苦しむ藩が多い中で、佐賀藩はどうして裕福であったのかー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-26-78-3)

幕末、財政悪化に苦しむ藩が多い中で、佐賀藩はどうして裕福であったのかー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-26-78-3)

第5編  公の国事周旋
第26巻 公武合体
第78章 将軍上洛、公武合体(元治元年 1864年 51才)

・幕末、財政悪化に苦しむ藩が多い中で、佐賀藩はどうして裕福であったのか

 ・直正公の時代の変化に対する方針は、倹約貯蓄に勤めて防備を充実することから始め、ついで農地開拓・干拓をして農産物増産で歳入を上げ、同時に鉄砲を改良し、ついで海軍を創設することにあった。
これには莫大な費用を要するため、これまで貯蓄した資金を元手に、銀札を発行した(下記コメント参照)。
しかし、佐賀藩の領地は限られているため、天草の開拓を企画していたが、幕府の許可が下りなかった。直正公の計画は、海軍の艦船を利用して北海道・樺太と貿易し、さらにオーストラリアの荒れ地を開拓して事業を起こす遠大な計画であった。

   そこで、大隈重信に佐賀藩内の鉱脈を探査させたが、思わしい結果は出なかった。
また、海軍費の調達にあたっては、銀札を発行するほかに
・5カ国条約で、米英が長崎に商館を開いたので、これまで五島列島あたりで密貿易をしていた商人は、商機として、蘭学者に通訳を頼んで営業を探り、これと貿易を始め
・鮑(あわび)貝に青貝細工をなさしめ、
・絹糸を買収し、
・漆器の製造を始め、
・緑茶を製造し、アメリカ人に売ろうと計画し
たりと多く起業したが、多くは不成功に終わった。また、オランダ商人が代金の代わりに受け取らない商品もあった。
しかし、佐賀藩民は、これまで質素倹約するばかりであったが、これから工芸・貿易を盛んにしようとの機運が生まれ、殖産事業の発展に向かった。

このことは、薩摩も同様で、アメリカで南北戦争が勃発して綿花が暴騰すると、大阪で綿花を買い受け、これを船に満載して外国人に売り渡そうとした。その船が関門海峡で長州藩から砲撃された事件が起こり、この密貿易が発覚した。

・大隈重信は、蘭学を修め、さらに英語を学び、英米の商人との交渉を担当していた。そこで、大隈重信は、次のような経済政策を建白した。
「長崎で貿易が許可されたことから、佐賀藩も英米との貿易を目的とすべきである。しかし、上方とコネクションがなければ貿易を有効に支配することはできない。長崎で佐賀藩が貿易を支配するためには40萬両を投資する必要がある。
そこで、5カ国条約により、 10年後には大阪、神戸の開港がある予定であり、現在は麦もできない砂漠であるが、神戸海岸一帯の土地を買い占めておくべきである。」
そこで、藩政府から大阪へ資金を送金した。その時の運動費2000両の手形2枚が、大隈家に記念として残っている。

・大隈の後日談として、「余は、このような関係については融通も利いたが、
元は家にわずかの蓄えもなく、機密情報を収集するに当たって費用の給付を受けたが、それだけでは、豪商とまじわって充分の運動をすることはできなかった。質素倹約のみでは、経済界で活動して勝利を制するのは不可能である。船を造って遠近に交流・貿易し、相互に情報交換して利益を上げる方法が1番である。佐賀藩はこの働きにまず着手したわけである。」

(コメント:銀札発行とは、紙幣を印刷して発行し、さらにこれを大阪の鴻池や北風ら富豪に貸し付けて、年5分の利息を取る方法です。同時に、佐賀藩内では、銀札の使用を厳しく義務づけるのです。明治維新の際の明治政府も、同様のことをやって、資金難を乗り切りました。
銀札発行に見合う(兌換)銅銀としては、銀札発行の三分の一もあれば、十分でした。その結果、年11万両の利益が出たのです。
幕末では、貧乏藩が大阪の豪商から借金して、財政難に苦しんでいたと言われます。しかし、佐賀藩みたいに、豪商に貸し付けて、利息を得ていた藩もあったことに驚きです。数枚上手というか。

 ・政府は、現在、地方創生政策を打ち出していますが、地方自治体の中にはどうしていいかわからない、結局商社マンなどを呼んで知恵を貸してもらうのが精一杯で、そして、これもうまくはいっていないようです。
幕末の佐賀藩のいろんな起業策は参考になります。急に起業するといっても、なかなかできるものではありません。人口減少の中で、起業に見合う需要があるのか。 これまで、商店街がシャッター通りになるのに、それを阻止できず、手を打てなかった当局が、どうして起業ということができるでしょうか。
佐賀藩が、失敗を重ねてもいろいろな事業をやりながら、起業の雰囲気・流れを作り出していったことは参考になります。ブログ主も参考になります。

 ・江戸時代も、法定(?)金利が民法404条と同じ年5分であったことがわかります。)

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