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鍋島直正の評価(アーネスト・サトウなど)—再建の殿様・鍋島直正公伝を読む(0-2)

鍋島直正公伝を読む(0-2) ー再建の殿様・鍋島直正の評価(アーネスト・サトウ)

 鍋島直正は、貧乏佐賀藩を幕末の雄藩にした人物です。

 著者久米邦武は、鍋島直正を名君として伝記を書いています。直正は鍋島藩の殿様で、久米はその家来ですから、当然のことです。また、この本の発行所は、「侯爵鍋島家編纂所」で非売品ですから、これまた当然のことです。しかし、この本の中身を見れば、阿諛追従(あゆついしょう)、すなわち、主君直正にへつらうようなところは一切ありません。

 鍋島直正については、他の藩の人間から見れば、「算盤(そろばん)大名」とあだ名がついています。仙台の玉虫左太夫が編集した「官武通記」には、「君公英傑、しかれども狡猾(こうかつ)また甚だし。世を傍観して事をなさんとする風あり」とあります。
 (どうも、油断も隙もない人間と思われています。)

 また、イギリスの通訳アーネスト・サトウは、「一外交官の見た明治維新」 (岩波文庫)で、鍋島直正についてー

 「やがて大君は、肥前の前の大名松平閑叟(かんそう 鍋島直正)を呼びにやり、彼をハリー卿や提督に紹介した。松平閑叟は47歳だが、年よりもふけていた。顔つきがきつくて、 両目をしばたたかせながら、時々思い出したように、ぶっきらぼうな調子でしゃべった。彼は日和見主義者で、大の陰謀家だという評判だったが、果たして1868年(明治維新)には革命の瞬間まで、その去就が誰にもわからなかったのである。閑叟は大君の左に座を占めた。彼が同僚に対する場合と異なった尊敬を大君に払っていた唯一の証拠は、話の中で「あなた」と言う代わりに「上(かみ)」という言葉を使用していたことだけだ。ハリー卿は、閑叟の招きで佐賀の居城を訪問せんものと先方の気をひいてみたが、彼は極めて用心深くて、いつか長崎でお会いすることもありましょう、と言っただけだった。そしてこのハリー卿のご希望は実現しないでしまったのである。」と書いています。
 また1868年(明治元年)に、直正について「風聞によると、隠居した肥前の前の大名で、一般に二股膏薬(ふたまたこうやく・股についた膏薬があっちついたりこっちついたり)さんと思われていた松平閑叟老人が間もなく京都へ上がってくると言う」・・・とぼろくそに書いています。
 明治維新後には、鍋島直正は、京都で出会った阿波徳島の藩主・蜂須賀にたいして、衆人の面前で「あんたの先祖は泥棒だったそうだが、本当ですか」と、まるで珍獣か何かを見るように問うたそうです。
 また、宮中会議の席上、さかんに女の話をして周囲をあきれさせたと言うことです(岡谷繁美の談、「人物 海の日本史」8巻「黒船と咸臨丸」、「鍋島閑叟」、高野澄記述担当)。
(コメント:誰がどういう立場で評価するか・書くかによって、まったく違います。また、書かれる時代・時期によってもまったく違います。例えば、仏教・お寺は、江戸時代にはキリシタン取締りのため保護され、神道は従属していました。明治時代、廃仏毀釈で、立場が逆になります。そのとき、法隆寺の五重塔がなんと50円で売りに出されました。アメリカ人が買ってアメリカに持っていっていたら、日本にはなかったわけです。そのころ、仏教美術品を買っていたら、大変な資産です。評価は、時代により著しく変わっています。)
果たして、真相はどうか、読んでいけばわかるでしょう。

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