東芝の祖・田中久重(久留米)の生涯現役83年の人生(1)ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-26-78-番外)
第5編 公の国事周旋
第26巻 公武合体
第78章 将軍上洛、公武合体(元治元年 1864年 51才)

からくり儀右衛門
東芝の祖・田中久重の生涯現役の83年の人生
1,田中は、 1799年(寛政11年) 、久留米で、 べっ甲細工師の長男に生まれます。田中久重は、儀右衛門とか近江とか名乗っていました。
2,田中が、佐賀藩士・佐野常民に請われて京都から佐賀へ移ったいきさつについてはすでに述べています。ココ。
当時、田中は、京都で「機巧堂」という屋号で最先端の万年時計などを製作して成功していました。
1854年(安政元年)当時、55才だったことを考えれば、現代で言えば、定年後の再就職ということになります。
3,佐賀藩精錬方で、蒸気船や蒸気機関車の模型を製作します。電信機も製作しました。それについては、ココ
そして、 1864年(元治元年)、田中が64歳の時、甥で養子にしていた二代目儀右衛門(岩吉)とその息子岩次郎が、気が狂った同僚・秀島から惨殺されたことは、ココ
田中と同じく京都から佐賀にやってきた中村喜助も、実験中に爆発事故に遭い、その後亡くなりました。田中は、中村の息子も田中林太郎として養子にして育てています。