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蛤門の変・四国艦隊の再度の下関砲撃前後ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-27-79)

蛤門の変・四国艦隊の再度の下関砲撃前後ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-27-79)

蛤門の変・四国艦隊の再度の下関砲撃前後ー幕末・明治を生きた日本人群像・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(5-27-79)

第5編  公の国事周旋
第27巻 長州征伐公武合体
第79章 長州が御所に発砲す(元治元年 1864年 51才)

蛤門の変
・この年6月、新撰組が、京都三條 池田屋で7人を斬殺し、計30数人を逮捕する。これに対抗すべく、長州藩は兵を率いて上京する。
・7月11日、幕府の顧問として、開国を唱えた佐久間修理(象山)が、三條河原町で、斬殺される。
・7月19日、長州藩は、大垣藩、薩摩・会津藩の兵に破れる。尊皇攘夷の久坂は戦没し、真木は、家屋に放火して自殺する。これが蛤門の変です。

・英仏蘭米4国艦隊の下関砲撃
8月5日、英仏蘭米4国艦隊が、下関を砲撃する。死者は1人、負傷者は6人ほどでわずかであった。英仏蘭米は、悠々上陸して砲門を破壊した。長州の被害は3・40人ほどであった。
その後、長州藩から、家老に扮した高杉晋作が甲冑を着て、白旗を揚げて和を請います。今後、関門海峡の通航を認め、砲台を建設せず、破損した砲台の修理もしないと約束し、賠償金を支払う条約を結ぶ。

長州藩は、これまで、強行に攘夷論を主張していたのに、1度実戦になると、かくまで ふがいない敗北をなすとはと、世間の人は、当然のこととはいえ、唖然としたことであった。
その背景として、長州藩は、昨年、オランダ・フランスから下関砲撃で砲門を破壊せられた後、桂小五郎が、密かに佐賀に来て、大木民平や江藤新平と会談し、大砲を入手する話をしていた。直正公は、長崎の数問の大砲をそれとなく安く売り渡すべく取りはからわれたという。

また、長州藩も、昨年の下関砲撃後、井上聞多らを英国に遊学させ、攘夷が不可能なのを理解していた。そこで、長州藩は、四国艦隊が砲撃する前に砲撃してはならないと通達していた。四国艦隊も、人を傷つけない程度に砲撃した。これが、負傷者が少なかった理由であった。

・10月、直正公は、上京し、病弱を理由に、宰相就任を辞退する。

(コメント;時代はまさに変化しているところです。しかし、直正公は、胃腸病のため、せっかくの「宰相」という重要な地位を辞退します。歴史の舞台から離れます。運命というものがあるのですね。)