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孤独死は不幸か、家族に囲まれて死ぬのは幸福か。

沢木興道 老師 曰(いわ)く

「(坊主が)世間体を考えて、死ぬときには坐禅して死なんならんと思う。そんなバカな。死ぬときには世間体もクソもあるかい。死ぬときに糞(くそ)ちびったならば、ちびって死んだらよい。死にかけておるのに、まだ臨終(りんじゅう)にうまいこと死のうと思うておる。なるべく下手(へた)に人生終わったらよい。上手(じょうず)に、作りものみたいな顔して死なないでもよい。死ぬのまでも巧(たく)みに死のうと思っている奴がおる。そんなものは、みなこしらえものである。」

今は、終活がはやっているらしい。しかし、余命1ヶ月と言われて、悠然と死を待つ人はどれくらいいるのでしょうか? そのときになってみなければわかりません。

ブログ主の知り合いで医者だった人は、これまで多数の患者の死を見てきたにもかかわらず、自分が死ぬ前は、意識のある間中「死にたくない。死にたくない。」と言って、奥さんを困らせたそうです。

中には、「俺と一緒に死んでくれ。」と言う人もいます。 「嫌。はよう、一人で死ね。」と言い返されたとか。

(2021.6.16)
コロナ禍えは、孤独死が当たり前です。そんな状況下で、あまり「孤独死」という報道は、少なくなった感じです。独り生まれて独り死んでいく、一遍上人がおっしゃった通りです。

仏壇・葬式とお布施について

沢木興道

「こんなことを この間も 誰やらが書いておった。

仏壇というものは 昔はありリはしなかった。江戸時代になって、ここの家はキリシタンだそうじゃないかというので、仏壇を作らせて、毎年それの検査をさせた。 これがお盆の棚経の始めである。

それから葬式というものは、また死人の検査だった。つまり キリシタンは死んだら真っ黒けになる、と言うふらしておいて検査をした。だから、あれは宗教でも何でもありやしない。 徳川の政策なんだ。

お布施というものは、あれはキリシタンと言われんように というコミッションであった。

沢木興道全集 第7巻-永平禄抄話ー325。

 

こういう起源を言われると、葬式、墓なんか、どうでもいいか、と言う考えの人も出てくるのでは。終活なんてどうでもいいか。

NHKの放送(2019.12.16)では、三井住友信託や信金が、「あんしんサポート」というサービスと始めたと報道していました。

しかし、そのサポートは、当然、対価のお金をもらってやってやるものです。亡くなった故人への尊敬・愛情・哀悼は、ひとかけらもないわけです。別に悲しんでくれるわけでなし、葬儀もがらんとして、淡々と進んでいくだけでしょう。

「金の切れ目が縁の切れ目」で、すべて金次第なのに、このサポートを契約している人たちは、根拠なく余りにも頼りすぎているのでは。

実際、自分が亡くなったときに、悲しんでくれる人があれば、それだけで幸せです。そんな主題のフランス映画がありました。