
福岡とヤンゴン姉妹都市
福岡とミャンマー(ヤンゴン)の関係
(2016.11.28)福岡とヤンゴンが姉妹都市締結
当面は、福岡市が、ODAの資金を使って、ヤンゴン市へ水道事業の改善の援助ですが、さらにほかの分野に広がることを期待したいです。
ただ、最近、ミャンマーは、内向きになり、援助はほしいが、外国人には、好意的でなく、ビザの代金が倍以上値上がりになり、外国人の国内移動を制限・報告させたりとの案が浮上しています。

福岡の陸軍墓地
1, 太平洋戦争中、福岡からも多数の人が軍隊に召集されてビルマ前線に送り込まれ、
多数の人が亡くなりました。その碑が、福岡市中央区六本松の陸軍墓地に建っています。「ビルマ・タイ・ラモウ戦没者の碑」です。戦死者約3400人が祭られています。
亡くなった人が約3400人ですから、戦争中は、相当多くの人が招集されて、ビルマなどに行っていたことになります。
・そのひとり菊兵団の陸軍軍曹・三浦徳平氏(福岡市博多区冷泉町)が書いた本(葦書房出版)があります。「一下士官のビルマ戦記 ミートキーナ陥落前後」です。ビルマ前線の戦争の実態が赤裸々に綴られています。
・インパール作戦については、岩波新書の「インパール作戦従軍記―一新聞記者の回想」 (1984年)があります。しかし、これよりも、三浦徳平氏の上記本が臨場感にあふれおもしろいです。 戦地で実際に戦った兵士だけあって、実際の体験に基づいているだけ、ぐいぐい引き込まれ、思わず読まされます。
「(ビルマ人)村民虐殺、敵前逃亡、同士討ち」などが赤裸々に記されています。おそらく、「これを書いておかねば、死んでも死にきれない。」との思いから書いたのでしょう。軍記物に付きものの日本軍の勇敢な話ばかりではありません。
太平洋戦争の軍記物には、同じようなものが多くあります。特に、インパール作戦の場合、司令官が、前線の兵士に徹底抗戦するよう(すなわち戦って死ぬよう)に命令したのに、命令した司令官自身はぬけぬけと戦後も生き残った例も多いです。他方、結局は、前線の兵隊は玉砕・病死しました。
戦後16年経ってグアムで見つかった日本兵・皆川文蔵さんも「うーん戦争ってやっぱり、まぁ戦争はひと口に言えば、私たちみたいに貧乏人のせがれが戦争に行ってやるんだと、偉い人はみんな家にいるんだと。それですから、貧乏人が国のために捨て石となって世の中っていうものはなっていくんじゃないかなと、私は思いました。」と証言しています(NHK 戦争証言アーカイブ)。
最近、好戦的なことを言う出しゃばりの年寄りがいますが、ある意味、無責任です。自分は戦場に行くことは絶対なく、行かされるのは若い人ばかりですから。特に、徴兵され知識がない若い人は、前線にかり出されます。
インパール作戦に関する映像については、NHKの「ドキュメント太平洋戦争 第4集 責任なき戦場 ~ビルマ・インパール」があります。