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ロシア軍艦渡来、治茂公の家督相続ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-2-4)

ロシア軍艦渡来、治茂公の家督相続ー再建の殿様・鍋島直正公伝(久米邦武著)を読む(1-2-4)

第1編 公の出生以前と幼時

第2巻 長崎防衛の変化

第4章 ロシア軍艦渡来、治茂(直正の父)公の家督相続

・ロシア使節レサノフの軍艦が、長崎に渡来する
1800年当初には、インド商会のカルカッタ使節船が通商を求めてきたが、断ったことがあった。
1804年、ロシア使節レサノフの軍艦が、長崎に渡来した。デンマークを経て、北米から南米・ホーン岬、そして太平洋に出て16ヶ月を要してやってきた。目的はロシア船の寄港の許可と、その寄港先を松前港とすることなどであった。

幕府からは、目付・遠山金四郎がやってきたが、行列などを飾って無駄な贅沢・乱費が多かった。
結局、日本は鎖国政策をとっているため、断った。

・佐賀藩に借金方を置く。治茂(直正の父)公が家督相続して、江戸に参内する。
長崎の緊急の重大警備、泰国公の死去、治茂(直正の父)公の家督相続と江戸への参内で、莫大な出費を要した。そのため、藩の財政は非常な困難となった。 6月の「蔵究(くらきわめ)」に対処できなくなった。
「蔵究(くらきわめ)」とは、銀・米会所の法律として、毎年度の収入を6月末日限りとして、延滞の分は不納の処分をし、それ以外のすべての負債は弁済させ、弁済できない場合は、直ちに家禄を没収して、以後、決して借用することができなくなる厳格な法律であった。
お家滅亡の危機にあった。結局、「蔵究」を延期して、 25年分割返済の請願となった。

当時の農夫が武士をあざけって「彼らはありもせぬ合戦請け負いたる穀潰し」と言っていた。
長崎警備のために、武器として、甲冑、陣羽織、旗をなどを揃え、長崎は晴れの場所として、ここに集まる藩士は、思い思いに華麗を競いて、その浪費は少なくなかった。
さらに、風説は、針小棒大に江戸に宣伝され、鍛冶屋の具足、古着屋の陣羽織などは価格が高騰した。長崎から遠い江戸さえも、このような混乱で、長崎警備に担当しない者も、互いに風説を伝えて、想像に想像を加えて、安心した気持ちにはなれなかったと言いいます。

・治茂(直正の父)公の家督相続のための登城、幕府の褒詞
「弘安の役」の後、北条氏は疲弊して滅亡の原因となったが、歴史は同じ事を繰り返していた。
・佐賀の政務・雑務改正の議

(コメント:第一次オイルショックのときも、トイレットペーパーがなくなるといった騒ぎが起き、高騰しました。冷静に、事実を確認しないまま、風説に左右されることは、江戸時代と変わっていません。twitter,facebookも、瞬時に伝わりますが、事実かどうかの保証はまったくありません。皆が同じことをいうと、つい信用してしまいます。)